前回のつづきで多田富雄著「寡黙なる巨人」の読書です。前々回に著者の免疫学の概説に出てくる「自己」という概念に触れました。本書にも「自己」、「自分」が登場します。
脳梗塞で「半醒半酔」(夢うつつ)の状態になりました。医師からはすっかり元には戻らないと聞かされます。覚悟を決めた患者でしたが、本人の懸念は「自己は維持されたか」という点にありました。その続きを引用します。
それより私が心配したのは、脳に重大な損傷を受けているなら、もう自分ではなくなっているのではないかということであった。そうなったら生きる意味がなくなる。頭が駄目になっていたらどうしようかと心配した。
これは免疫の話ではなさそうです。体がいうことを聞かない状態になっても、以前のように頭が働くかどうか。記憶の検証をしてみることにしました。まず掛け算の九九をやってみたところ、幸い大丈夫。趣味の謡曲もいくつか試したところ、しっかり覚えていました。
これで「自分」が保たれているという自覚が生じたようですが、逆に今度は身体が動かないという現実が重くのしかかってきました。「よく泣いた」と書いています。舌は動かないどころか、あおむけになると喉に詰まってしまうので、終日ベッドの上で、腰掛けるような姿勢を取りました。
昔話ですが、親戚が脳疾患で倒れたときお見舞いに行きました。手足が少し動くくらいで、あとは耳が聞こえるようで声をかけると目を見開きます。これは辛いだろうなと思いました。適切な表現とは言い難いですが、そのとき思ったのは「自分の中に閉じ込められているようだ」。
多田氏も「沈黙の世界に閉じ込められてしまった」と書いています。死の誘惑にかられました。電動ベッドを操作すればできるのですが、「妻の献身的な看護」に思い至り、自分の命は自分だけのものではないと考えを改めます。
二週間ほどたった或る日のこと、麻痺していた右足の親指がピクリと動くという、予期していなかった出来事がありました。やがてまた動かなくなったものの、「初めての自発運動」に夫婦は泣いて喜びました。
彼は「自分の中で何かが生まれている感じ」がしたそうです。この何かはリハビリをしながら育ってゆきます。この新しい何かは、自分の中にありつつ、客観的にとらえることができた様子です。この何かに名前が付きました。本書の題名、「寡黙なる巨人」です。古い自分を凌駕し、新しい人生が始まりました。
(つづく)

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