今回から二人の研究者による闘病記の案内文を書きます。以前、小説を題材にしたときは感想文と呼びました。フィクションの場合、登場人物の心理を推量したりといった読み方は自由ですし、それが楽しみでもあります。でもノンフィクションの場合、しかも故人の書物で遺族など関係者もおられるであろう場合、勝手な推測は慎みたいです。
今回の記事で題材にする書籍、多田富雄著「寡黙なる巨人」(集英社文庫)は、かつて本ブログで一回だけ話題にしています。ここに再度取り上げる理由は、(1)以前の記事が拙い。(2)私の複数の親族が、多田氏と似たような闘病、リハビリを始めて他人事ではなくなった。(3)多田氏が他の蔵書にも登場していたことを思い出した。以上三点により改めて読みます。
上記のうち(1)について、何がまずいかというと、本書は多くの方に読んでいただきたいのに、そう思っていただけるような内容、表現になっていないと思うからです。まずは、「寡黙なる巨人」の著者紹介から引用します。「2001年、脳梗塞で倒れ声を失い、右半身不随となるが、リハビリを行いながら執筆活動を続ける」。「10年4月逝去」。本書の最後に、前立腺がんの診断を受けたとあります。特定非営利活動法人「日本免疫学会」のウェブサイトです。
本日は上記のうち(3)他の蔵書に出てくる多田教授の話題です。同氏は国際的な免疫学者であり、また本書にも描かれていますが能など古典芸能への造形が深く、そして本書を読むだけでもわかりますが、説得力のある文章を書く執筆者でもありました。そして上記(3)においては、学者としてインタビューを受け、とっつきにくい免疫の世界を、なるべくやさしく一般向けに解説しています。
一般向けと申しても、聞き手が博覧強記の立花隆とあっては、やはり手ごわいものがあります。私の(正確にいうと家族が買った)蔵書は1993年発行という古いもので、立花隆対談集「マザーネイチャーズ・トーク」(新潮社)。7人の対話者のうちの一人が多田富雄です。章題は次のとおり。「免疫という名の『自己』を守るシステム」。
今回の標題である「自己」と「自分」は、通常いずれも英語の"self"に対応するものとされるようですが、「自己」は学術用語、ビジネス用語であり、日常生活ではあまり使われません。自己完結とか自己評価とか、使うにしても硬い言葉です。対する「自分」は日常用語そのもので「自己」よりも幅広い意味を持ちます。私自身も、「私は」と同じ意味で「自分は」を使います。関西では「君は」にもなります。
ひと昔前に「自分探し」が流行り、近年では「自分らしく生きる」といった用法を頻繁に聞きます。もう探し終わったのでしょうか。どうも使う人も口癖になっているだけで、何を言いたいのかよくわかっていない感じがします。そういう私もずっと、「自分」というのはこの考えたり感じたりしている漠然とした心や精神のことだと思っていましたが、最近それが変わりました。
その件については、これまでも何度か話題にしていますが、要するに身体が老化で壊れ始めて以来、体も自分であるという当たり前の現実に直面しております。誰かが書いていましたが、年を取って以来、「内臓の場所が分かるようになった」とはうまい表現です。それまでの体は「自分」を支える首から下の土台みたいに感じていました。今ははっきり違います。いたわらないと困ったことになる。
本書において、まず進行役の立花隆が、私も子供のころからなじんでいた免疫という言葉の意味合いに触れています。すなわち「免疫というと一般的にはある種の病気に一度かかると二度はかからない、あるいはかかっても軽く済む現象だと理解されている」。これに続き、その一例として予防接種の話が出てきます。
これに対し、立花はこれからが本題と述べたあとで、「いま現在、『免疫』という場合には、体内に異物が侵入してきたときに、その異物を排除しようとする生体防御反応一般を指す」と語ります。単なる「現象」という観察結果や経験談なのではなく、生物学における「システム」を指すとも言っています。これに対する多田富雄の反応を引用します。
「少し難しい言い方になりますが、もともと異物というのは「自己」に属さないものですね。つまり「非自己」なわけです。ですから免疫は「非自己」(ノット・セルフ)の侵入から、「自己」(セルフ)を守るための戦略と体制だということができると思います」。
免疫という言葉はコロナ禍のころ、よく聞きました。なぜ新型コロナ感染症だけは、当時も今も予防接種と呼ばず、ワクチンのままなのか、いまだによくわかりません。昨年、居住地の保健所から届いた前期高齢者向けの接種券のうち、新型コロナだけは相変わらずワクチンとあり、フルーその他は全部、予防接種でした。医療従事者にとっては大きな違いがあるようです。
この青字の箇所を読んだのは遠い昔ですが、今でもよくその時のちょっとした驚きを覚えています。私たちの体内や皮膚には、見たこともない別の微生物が住んでいるそうです。大腸菌とか顔面のダニとか、多種多様で無数の別の生き物が同棲しています。当然のごとく、これらは異物だと思っていたのに、この多田説によれば、「その侵入を防御すべき非自己」ではないということになりませんか。これが免疫学者の見ている世界です。
それまでの私は、自分という一つの命は、物理的に自分以外と切り離されていて不動のものであり、それでよいのかどうか疑うことすらしませんでした。しかし本書にも出てきますが、臓器移植をした場合、それまでの非自己が自己の一部になり得ますし、免疫に排除されて上手くいかないこともあります。ことはそう簡単ではありませんでした。
多田富雄はこの対話の数年後の2001年に脳梗塞で倒れて寝た切りとなり、この年に起きたアメリカの「同時多発テロ」を病床のテレビで観たそうですが、本人はそれどころではない。今度は学術を超えた生死という観点から、自分とは何か、今のこの自分は何をどうすべきかと考え続けます。そういう本です。同病でなくてもリハビリと縁がなくても、読む価値があります。
(つづく)

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