先回話題にしたように、次回から二人の学者(いずれも故人)の闘病記を読みます。いずれも文庫本で買いました。もう十年以上前のことで、何がきっかけになったのか覚えていません。そのころ死生について考えるような出来事があったかと考えてみると、一つは家族のガンの手術であり(幸い成功しました)、もう一つは東日本大震災。
今回の記事は時々題材にしているように、自分自身の闘病の経過報告です。あくまで私の印象ですが、ブログにしろSNSにしろ個人が投稿しているネット記事において、生老病死を語るものは比較的、少ないように感じます。特に広告収入を狙っている人は、暗い話題を避けたくなるのも無理はありません。ネットに限らず、現代日本では「若さ」に価値があり、「老い」はネガティブな扱われ方をしていると強く感じます。
私が若かった数十年前は、まだ敬老の精神や年功序列の慣習が根強く残っており、われわれ若者は(特に男は)、「おまえはまだ若い」という、決して誉め言葉ではない叱責や揶揄の対象になっていました。ところが年を取ってみたら、ジジババが馬鹿にされたり、憎悪の対象にすらなっています。この点に限って言えば、時の流れによるもので如何ともし難いのですが、なんだか損した気分です。
もっとも、考え方を変えてみれば、露骨にそういう言われ方をするというのは、言う方の側に羨望があるのかもしれません。昔の年寄りにしてみれば、若造の若さが小憎らしかったのかもしれません。今の若者にしてみれば、社会保障とか退職金とか、年代の違いで不公平が生じていると思っているのかもしれません(お金に関して言えば、本当は個人差が巨大なのですが)。
ネットの記事を見ていると、老いを話題にしている人は老人相手のご商売をしている人たちが大半です。それはそれで世の中、必要な情報なのでしょうから、どうこう言いません。しかしながら、長生きすればだれもが向かえるであろう老後のしんどさについて、本カテゴリーのごとく自身の大問題として、しつこく嘆いているものは、あまり見かけません。老いてなお元気という趣旨のものの方が圧倒的に多い。
私が子供のころ「核家族化」という言葉がありました。1960年代までの私の実家のように、祖父母、両親と共に子供たちが、三世代で暮らしているというのは決して珍しくありませんでした。そして核家族になるまでの多くの子供たちは祖父母の、場合によって両親の、老いて苦労している姿を日常的に見ていたはずです。親や本人が「在宅ケア」で介護していた家庭も少なくないはずです。
私にとっての核家族のイメージは、今なお政府が「モデル家族」と称している両親と子供二人の四人世帯です。しかし統計によれば、日本の世帯のうち一人世帯(独居世帯ともいう)と二人世帯(老夫婦が多いでしょう)を併せると、過半数です。しかもすでに私を含む半世紀前には、最終学歴を修めたのち、「家を出て経済的に独立する」のが、大人になる第一歩という時代でした。
盆暮れ正月に東京駅に行くと、多くの親子連れを見かけます。海外旅行組も含まれましょうが、多くは実家に行くのでしょう。一週間程度なら、日ごろ病気や老化で苦しんでいるジジババも、かわいい孫の前で辛気臭い話はしないと思います。かくてこの国の青少年は、私同様、親族の老化を日常的には見ることもなく、いきなり六十代あたりで、自分の知力体力が急激に衰え始めて、愕然とすることになりましょう。
すでに詳しく書いてきたので、ここでは繰り返しませんが、私の場合、63歳で持病の腰痛が悪化し、64歳で目と歯の機能が衰え、65歳になって膝痛が始まりました。物忘れも増えました。毎日毎日、どこかが痛んだり、どこかが不便です。若いころも辛い健康問題を抱えましたが、この歳になると「もう治らないし、悪くなる一方」という現実を受け入れなければなりません。毎日、生きているだけで不愉快や不都合を経験します。
しかも自然治癒の力が衰えていますから、いきおい入院・手術から家庭用の医薬品に至るまで、医療費が急増します。こういうことを教えてくれる人が周囲にいれば心の準備だけでもできるかもしれませんが、今はそういう社会ではなくなりつつあります。だから私はどこかの誰か一人にもで良いから、お役に立てたらいいなと思いつつ、飽きずに壊れゆく自分の実況中継をして参ります。
(おわり)

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