今回のタイトルは、いま読んでいる重松清作品の文庫本のタイトルであると同時に、その短編集に収録されている短編小説の題名でもあります。この記事においては、後者の短編が読書の対象です。これに続く「その日」、「その日のあとで」も含めた三作品は、夫妻と息子2人の4人家族が主役です。この中で、妻と長男と次男は下の名が出てくるのですが、名字が不明です。
さらに語り部でもある夫は、氏名ともに不詳であり、小説は「僕」の一人称語りになっています。作者は明らかに「僕」の個人情報的なものを避けて書いており、職場では社長と呼ばれ、客先では先生と呼ばれ、その会社の名前も出てこないし、駅名や路線名も架空のものです。特に妻が入院する病院ですら、妻の名である和美しか会話に出てこないという徹底ぶり。
一人称語りは日記でも随筆でも手紙でも用いられる書き方で、実話にせよフィクションにせよ、語り手の心境を伝えるのに適しています。この短編集の作品の多くは、「その日」を迎える当事者(つまり病人)よりも、むしろ家族ほか患者と等しい人たちの辛い思いや言動に焦点を当てています。繰り返せば、生老病死は、各自が自分だけで苦しむものではありません。
今回以降の「僕」はその代表者であり、おそらく作者の意図は「いつの日か読者もこうなるかもしれない」というのを前提にしているように思います。そのために「僕」のプロフィールを極力、削っているのでしょう。職業はイラストレーターです。これはストーリー展開に欠かせないからです。世代はたぶん作者と同年代で、バブル景気のあとに、夫婦そろって22歳で結婚。その20年後に物語が始まり、終わります。
本筋に入る前に、今回はちょっと趣向の異なる感想を記します。この短編集のテーマの一つは「忘れる」ことです。この「忘れる」をもう少し詳しく自分なりに言えば、厳しい体験をしたのち私たちは、「いっときたりとも心が休まらない」状態から、「忘れては思い出す」ようになり、場合によっては偶然思い出すようになるか、すっかり記憶から失われます。この中間の「忘れては思い出す」ような状態です。
「潮騒」では、小学生のとき波にのまれた「オカちゃん」のことを、俊治も石川もすっかり忘れていました。シュンが食道がんで余命宣告を受けて石川が住む町を訪ねなければ、多分ふたりとも生涯忘れたままだったでしょう。でも記憶の奥底に残っていました。むしろ二人にとっては懐かしい思い出のように語られています。そういう意味での「忘れる」です。和美の最期の言葉は「忘れてもいいよ」でした。
(つづく)

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