私自身が講師を務めるかもしれないメンタルヘルス関連の研修資料を作りながら、専門家の本を読んでいます。ここ数週間はアルコール依存症の本を何冊か読んでいるのですが、大量飲酒は依存症だけではなく、ガンの原因にもなる危険性が大きいとよく出てきます。
特に喉は分解消化前のアルコールが直撃しますので、食道がんなどを招きやすいそうです。私はガン家系にして、酒飲みですから要注意。初期症状に関する情報収集をしました。
先回、重松清「その日のまえに」の登場人物のうち、自分でがん患者だと名乗るのは一人だけだったと思うと書きました。その一人が、「潮騒」に出てくるシュンです。スキルス性(湿潤型)の食道がんが転移し、自覚があったのに受診が遅すぎました。
同級生の「でめきん」こと石川は、何十年ぶりに会いに来たと思ったら、もうすぐ死にますって、そりゃないだろうと言います。お互いシュン、でめきんと呼び合っている二人の会話は、同級会などで私も同じ経験をしますが、言葉遣いが昔に戻ります。
このブログのカテゴリーは「老いをみつめる」としましたが、先述のとおり、その先にある死も無縁ではありえません。とはいえ「死を見つめる」では何だか純文学みたいなので避けていますが、特にこの重松書は老人が殆ど登場せず、生死を見つめた物語集です。
いったん石川と離れてシュンは一人、かつて同級生のオカちゃんをさらっていった海岸に行きます。波の音がします。これまで波が引くときの潮騒は大きく引く音だけしか聞こえて来なかったのに、今のシュンにはそれと同時に、残されたわずかな海水が砂浜に滲み込んでゆく音も聞こえるようになっています。「その日」を三ヵ月先と宣告されたこの日、シュンは海岸でこんなことを考えます。
明日からは、体の苦痛にさいなまれることが増えるだろう。一日ずつ近づいてくる死の瞬間への恐怖におしつぶされてしまうこともあるはずだ。その狭間の今日は、ほんとうに、拍子抜けしてしまいそうなほど静かで穏やかな心持ちだった。「晩年」をこんなふうに始めることができるのは、そもそも「晩年」の始まりを意識できることは、何よりの幸せではないのか。
でめきん石川は昔も今も優しい男で、クリスマスには彼の商店街で大きな電飾のクリスマス・ツリーを作るから、必ず見に来いと言います。シュンはその誘いに応じることが出来ませんでしたが、後の回で述べる予定の別の邂逅があります。でめきんのようなガキ大将は、田舎育ちの私の幼稚園、小学校の時代にはまだ居りました。先生より存在感があるような奴が。
かつて、宮沢賢治の童話が子供の頃から何となく苦手だったと書きました。その理由の一つが分かってきました。彼の作品には死の色が濃い。「やまなし」で、クラムボンが死にます。グスコードブリが去り、よだかは星になりました。「なめとこ山の熊」は壮絶です。そして、カムパネルラも水に流されて消えました。なぜか銀河鉄道に乗っています。
「潮騒」の最後は、シュンの幻想のようなシーンで終わります。潮騒が聞こえ、古い列車がホームに入って来ます。乗客が見あたりませんが、長い列車の最後の車両に小学生のオカちゃんがいて手を振っています。両隣に若い両親がいて、シュンはこの一家の運命を悟りました。小学校の夏休みにオカちゃんの誘いを断り事故の一因となってしまったシュンですが、「晩年」の始まりの日は穏やかに終わりを告げています。
(おわり)

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