おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ひと一人の命  (第1942回)

昨日(2020年3月18日)は、朝一番の急ぎの仕事を片付けてから、コンビニまで歩いて、久しぶりに週刊文春を買ってきた。わざわざ買いに行ったのは、東日本大震災のとき以来ではないかと思う。財務省の醜聞の記事をすぐに読みたかったからだ。

このブログは、最初、単純に憲法が勉強不足であると実感し、それではまずいと思って本やネットで独学してきた。しばらく更新が途絶えていたのは、もう憲法の議論というより政治の論点になっていて、キナ臭く、訳が分からず、うんざりしていたからだ。もともと政治に関心が薄いし、政治家が嫌いだから。


本件だったか別の事件だったか覚えていないが、少し前に新聞・雑誌かネット・サイトか、読んでも時間の無駄とは思えない中身の座談の中、匿名の検察官の談として、「ひと一人、死んだら、それはクロだ」というのが印象に残っている。黒川でも黒田でもないですが、ともあれ含蓄のある言葉です。

長くなってきた我が人生ですから、秘書だの部下だの、こうして下の者がなぜか世を去り、うやむやになって、そのうち野党も報道も我ら有権者も、関心の的が他に移り、過去の出来事は忘れてしまう。そうやって何十年もやってきた挙句が、このありさまだ。


むかし、監督官庁の担当者(技官の国家公務員、中央ではなくて地方)とペアで、あるプロジェクトの事業管理をやったことがある。私は公務員ではなく、裏方の事務局でした。その事業で、労災の死亡事故が起きた。原因は詳しく知らないが、不測の墜落事故でした。

その国家公務員とは二年ほどの付き合いで、この事故の前も後も、怒るどころか嫌な顔ひとつ見せたことのない温厚な方で、むしろ私と他の公務員が諍いを起こすと、間に入って止めてくれたほどの人です。


その方が、この死亡事故では怒りに燃えた。それも怒鳴り散らすのではなく、冷静に事実関係の聴取をしながら、横で聞いているだけの私にさえ怒りが伝わってくるのだから、相手もたまらなかっただろうと思う。でも取返しのつかないことがおきたのだ。

私が関与した仕事で、直接の関係者が業務上の理由で亡くなったのは、これが最初で最後ということも加わって、強く印象に残っている。これが監督者のとるべき態度なのだと今も信じている。ひと一人の命というものは、たとえそれが消えてしまったあとでも、このように接しなければならない。


この雑誌の記事を読んだだけで、欠席裁判のような結論を慌てて出すことはしない。これから司法と国会の両方で、かつてない糾弾が始まるのだから、その進展を見守りたいし、だいいち急がなくても、結論が見えているほどの手ごたえを感じているのは、政権の支持・不支持に拘らず、ほとんど皆さん同じだろう。

昨日読んだ後の感想を一言で述べれば、永田町や霞が関のど真ん中に、地獄の窯の蓋が、ゆっくりと、開いた。どうやら、そこに落ちるべき者は複数いそうだが、何もなく終わるならば、この国は法治国家でも三権分立でもなく、言論に自由はあっても責任はない。


報道機関は、何をするにせよ、しないにせよ、社運をかけるときが来た。その正体がいかようであれ、みなの目にさらされる時が来た。また、今回の代理人の弁護士さんのうち、お相手はご記憶にないだろうが、お一人と一面識ある。ご活躍ご健闘をお祈りする。

それでも国民主権憲法を掲げている限り、これが不問に付せられるようであれば、代わって落ちていくのは我々だ。改めて故人のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の心痛が少しでも和らぐ日が一日でも早く来ることを切に願う。



(おわり)




早桜、一輪  (2020年3月11日撮影)























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