おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

空気  (第1904回)

 いま大流行りの「忖度」という言葉は、たぶん何年か前に流行した「KY」の「K」と似たような意味合いで使われているように感じる。ただし、以下は私見ながら、忖度というのは、辞書的な語義としては、人の心を推し量るという、どちらかと言えば良い語感を持つ。

 KYは明らかに逆で、空気を読まない、空気を読めない奴という否定的な使われ方をしていた。周囲にもいたが、あいつはKYだ、と他者の悪口をいう人は、大抵の場合、いちいち言わなくたって俺の気持ちぐらい分かって行動しろと文句を言っている。


 ひとの気持ちが分かって行動するときは、多くの言語学者などが言っているように、「忖度」よりも「斟酌」のほうがふさわしい。いずれにせよ、言語化されていない何かが、個人や組織の重要な判断要素になるのが、この国の不思議さだと喝破したのが、山本七平の「『空気』の研究」(文春文庫)だ。若いころ先輩に進められて読んだような覚えがある。

 この説は、中根千絵さんの「タテ社会」や、土居健郎さんの「甘え」と同様、あまりに当たり前すぎて、正し過ぎて大した反論も出ず、そろそろ古すぎても来たので、そう遠くない未来にこの社会の特徴を、そういうふうに見極めて主張した人たちがいたことさえ、忘れ去られるだろう。しかも今なお、そのままの日本社会だ。


 空気で決まる典型例として、戦艦大和の特攻や、そもそも太平洋戦争の開戦自体が、それそものだと山本さんが挙げている。これを受けて内田樹さんも「日本辺境論」(新潮新書)の中で、丸山眞男の「超国家過ぎの論理と心理」から、「ずるずる」という言葉を例示して、「あの時の空気で何となくそうなった」という山本的「空気」との類似性を指摘している。

 憲法のブログなので、国政に関することから自分なりに「空気」決定の実例を挙げると、自民党と当時の民主党の間で往復した二回の政権交代や、そのたびに、あるいは長期政権の選挙圧勝のたびに大量発生する「何とかチルドレン」がこれに当てはまる。有権者は、あまり財務省らを嗤えない(もちろん、税金の話だから看過はできない)。

 声が大きい者の勝ちなんて言い方もあります。こういう空気「だけ」で流されないための手段として、多数決の原理があると山本さんはいう。ただし、これまた最適な、本音そのものの決定になるとは限らない。心当たり、ありますよね。居ますよね。遅れて手を挙げる人が。

 
 前掲山本書の冒頭、第一行に「道徳教育」という言葉が出てくる。私もこのサイトで、道徳教育という言葉に対する何とも言えない違和感を訴えてきたのだが、山本七平はある日、取材にきた記者に「道徳教育」をどう思うかと訊かれたという話題から始まる。

 質問が抽象的だったので、山本氏も抽象的に、「日本の社会に道徳的規範がある以上、一つの知識又は常識として、系統的に教えておく義務が、教師にはあるでしょう」と答えた。ちなみに、例としては田中首相の辞任と、ウォーターゲート事件を採り上げ、これらが政治決定というより道徳的事件だと述べている。


 記者の反応は、まず「ははあ、では道徳教育に賛成ですな。今は大体そういった空気ですな」というものだった。これが本文における「空気」の初出である。なんだか、デジャヴでも見ているようなやりとりです。その次に記者さんは、どういったところから始めましょうと尋ねた。

 山本の返答が良い。「それは簡単なことでしょう。日本の道徳は差別の道徳である、という現実の説明から始めればよいと思います」。また、「日本の道徳は、現に自分の行っていることの規範を言葉にすることを禁じており、たとえそれが事実であっても、”口にしたことということが不道徳行為”と見なされる」などと答えた。


 記者いわく、それはそうだが、「第一うちの編集部は、そんな話を持ち出せる空気じゃありません」というものだった。ここで仮説が成り立つ。至る所で人々は、何かの最終決定者は「人ではなく空気」である、と言っている。ボブ・ディラン風にいえば、あらゆる答えは風に吹かれている。

 さて。「差別の道徳」というのは、あまり聞きなれない言葉だろう。ここで山本さんが記者の説得材料に使っているのが、三菱重工爆破事件という恐るべきテロリズムだが、相当上の世代でないと実感がわかないと思うし、今の日本人は少し違う規範を持ち、行動に出すと思うので、ここではその詳細は省く。


 念のため、山本七平は差別が道徳的な行為だと言っているのでは勿論なく、日本では差別という強力な思考・行動の原動力があり、そういうふうに世の中が動くことがあるということを教え込まないと、綺麗ごとばかりでは子供もこれから大変だよということだ。
 
 「放送自粛用語」、「言葉狩り」が好例だろう。私の年代では、何の変哲もなかった日常用語が、いまや差別用語として喧伝されている。たとえ、それが純粋な好意でなされた行いだとしても、子供たちには「こういう人たちが差別されているんだ」というメッセージとして伝わる。そんなことなら、確かに学校で系統的に教えた方が、ずっとよい。

 
 ちゃんと、教えられるなら。良心的で働き者の先生方は、過労死寸前の多忙と消耗度らしいではないか。いじめ問題が多いが、相次ぐ文部科学省教育委員会の不祥事は、いったい何がどうなっているのだろう。最近では先輩の元事務次官の授業にまで、中身も知らない段階から口出ししているらしい。

 前にも書いたが、国会で法律に定めなくても、善かれ悪しかれ人の行動を縛り付けるのが道徳というものだ。倫理学という学問の分野があるように、学者が心配するほど道徳というものは恐るべき諸刃の剣だ。


 今の道徳の教科書がどうなっているのか知らないのだが、何となく、和とか家族愛とか文化とか伝統とかいった教育勅語的な、首相答弁的な美辞麗句が並んでいそうな、嫌な予感がする(山本さんも同書で、教育勅語に言及している)。全体主義は、全体をまとめて騙すために、耳に心地よい言葉で迫って来る。私たちの潜在意識をくすぐってくる。

 その圧力は、空気のように目に見えないし味もない。この「空気」への抵抗を、山本七平は「水を差す」という、これまた伝統的な言い回しで表現している。たいてい嫌われるので、「水を差すようですが」という前置きで準備運動が必要だ。KYの道を究めるのも容易ではない。取り留めもなく終わります。



(おわりです)




ご近所の桜。翌日、雪が降ったのには驚いた。
(2018年3月20日撮影)


















































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