おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

黙って年貢を納めている場合かどうか  (第1294回)

 古い話から始める。もう教科書に載っているらしいのだが、1980年代後半のバブル景気。あの時期に、一番儲かったのは誰だろうという推測から入る。ほとんど追加で勤労する必要もなくして、大儲けしたのは間違いなく国と地方公共団体である。所得や売上に課される税金も、いわゆる贅沢税も、高騰した不動産や配当金に課された税金も、濡れ手に粟の書き入れ時だったはずだ。

 あの金は、どこでどう使いましたか。なぜ、今こんなに借金だ、財政難だと騒がしいのですか。かつてアメリカにいたころ、それまで給料天引きのサラリーマンだった私は納税者という自覚に欠けていたため、当時のアメリカ人がよく使う「as a taxpayer」という表現が新鮮だった。彼らの所得税に天引きは無く、日本の個人事業と同じく年に一度の確定申告がある(20年前の話なので、今はどうか知りません)。


 払うものは払うが、その代わり、ちゃんと使えという点において、欧米人はうるさいと聞いたことがある。私も個人事業主になって、ほんの少し回心した。税金の使い道に関心を持つのは、主権にともなう責任として当然の要請であるし、常に監視しなければならない。この点において、我ら日本人は、灯油が値上がりするというような日常生活の物価上昇には敏感だが、何ケタか大きい金額の歳出が相手となると、思考停止になる。

 多くの途上国は、自給自足経済から貨幣経済に以降した現代において、国庫の破綻やハイパー・インフレーションで一夜にして紙幣が紙くず同様になったり、敗戦や革命で本当に紙クズになってしまう経験をしている。金(きん)が重宝されるのは、価値が消滅することがない蓄財・決済の手段だからだ。でも、日本は敗戦途上国から、いきなり高度経済成長に移行し、石油ショックを最後にインフレの怖さを知らない世代が親になっている。


 この過度な幸運が、鈍感な納税者を量産した、なんて言い切ると全国民を敵に回しそうだが、思うに国民主権であるならば、国民は兵隊になれという乱暴な議論の相手をする前に、国庫はわれわれの財布であり家計であるという責任感(せめて当事者の自覚)を持つのが先決ではなかろうか。われわれは監査役にならないといけない。その技術の習得には手間暇がかかりそうだが、まずは心構えの問題である。

 遅くなりましたが、納税の義務を謳う憲法第30条は、以下のごとし。改正草案も異論なく、最後の「負ふ」が現代仮名遣いにより「負う」になるだけの改訂案。
第三十条 国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。


 たまには、現行の憲法に異論を立てても罰は当たるまい。なぜ、教育と勤労には権利と義務があるのに、納税には義務しかないのか。納税の権利という発想が憲法にあってもよいのではないか。私なりに理解したつもりの勤労の義務および権利と同様、「義務」が世のため人のためのものならば、「権利」はいつか失業手当のように自分や家族にも戻ってくるかもしれないという、ささやかながら前向きな姿勢である。

 現行の税制でも、それらしきものはある。権利というよりは、選択肢あるいは節税策と呼んだ方が近いだろうが、「ふるさと納税」と名付けられている寄附金の控除制度である。これでさえ、先日の公共放送では、都市部の地方税収入が減って困っているという報道の材料にされた。油断も隙もない。


 更なる権利の要求に対しては、今の国家権力は歯牙にもかけまい。でも改正草案では、第12条案に「自由及び権利には責任及び義務が伴う」と、つい書いてしまったことをお忘れなく。国には徴税の権利があるのだから、いきおい徴税者としての義務も同伴すると、ご自分で主張なさっている。第12条案のロジックに私は与しないが、せめて自らの論理が破綻しないよう善処されたい。

 私は国ばかりを責めているつもりはない。社会保障という餌のエビでタイを釣る人たちも気に入らないが、そろって釣られるほうも釣られるほうだ...。ここ二回は、最近、財産は減るわ税金は増えるわで、うんざりしているところにブログの項目の順番が回ってきたため、乱筆乱文の儀、ご容赦ください。本当は人のことなど言えない。でも理想を堂々と語れる数少ない機会なのです。





(おわり)





最近は朝が早くて。
(2016年12月15日撮影)




































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