おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

健康で文化的な  (第1270回)

 前回は憲法にケチをつけているかのようで、自分で始めておきながら、あまり愉快ではないが、まだ続きがある。「健康で文化的な生活」とは何か。この「生活」をプライベート・ライフと取ってしまうと、仕事を終えても、ほんの少し楽しむくらいの権利があればいいというような、狭苦しい解釈に陥りかねないのを危惧する。

 これは仕事中も、私生活においても、健康で文化的な要素がなくなるようなことがあってはならないという主張だ。私はそう思う。憲法は理想を語る。何度でも引用するが、前文の最後の最後に、日本国民は「全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と書いてある。当時だけではない。今もそうだ。今は理想に届いていなくても、全力を挙げ続けなくては嘘つきだ。


 うかうかしておれない。参院憲法審査会が始まってしもうた。では頑張り続けるとして、そもそも「健康で文化的な」とは、どういう意味か。英語では「wholesome and cultured」となっている。私は当然のごとく「健康な」とは「ヘルシー」だと思っていたのに、あまりお目にかからない「wholesome」になっている。もっとも、いくつか調べた範囲では、両者の辞書的な語義は殆ど変わらない。

 注目すべきは、これら英単語には「健康な」のほかに、いずれも「健康に良い」という意味もあり、われわれが日常「ヘルシー」を使うのも、こちらの場合が多かろう。それに、「健康な生活」というのは語呂が良くない。「健康的な生活」のほうが耳に慣れており、これはつまり「健康に良い生活」という意味だろう。スーパー・コンビニの野菜売り場の標語のようだが、解釈には便利だ。


 ついでに、訳語として「健康な」だけではなく、「健全な」を加えている辞書も多い。広辞苑では、「健康」と「健全」の解説はほとんど同じ。すこやか、である。でも、日常用語としては、どうだろう。健康優良児とか健康診断という言葉から受ける印象は、肉体が健やかというイメージである。

 これに対して、例えば「不健全」という言葉を使うとき、病気やケガのことを思い浮かべる人は少ないと思う。こちらは、世界保健機構(WHO)の定義に沿えば、社会的・精神的に不健康な状態を指すように思う。このWHOにも「CONSTITUTON」がある。さすがに一般的な和訳は、憲法ではなくて「憲章」。

www.who.int




 そのプリンシプルの筆頭が、田舎の高校生だった私まで習わされた「Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity.」である。我が国では「health」を重視し過ぎたあまり拡大解釈したのか、ある種の産業名にもなっているが、法令と公共の福祉に反しない限り、許容されている模様。

 この英文の拙訳。「健康とは身体的、精神的および社会的に、この上なく満足できる状態にあり、かつ、単に病気や衰弱とは無縁であるという意味にとどまらない」。前にも申し上げたように、肉体と精神を区別したがる西洋的・キリスト教的な感覚が気に入らないが、国連様では仕方がない。メンタル・ヘルスも、すっかりカタカナ英語になってしまったし。


 そもそも、健康を定義する必要性すら感じないのだが、これは何といってもWHOの組織名にヘルスが入っているので、一言申さずにはおられないのであろう。なお、それにも拘わらず日本語では、世界「保健」機構になっており、厚生労働省の「厚生」も英語では「ヘルス」だ。だから、定義づけなんて無理な世界なのだが、なんせ日本国憲法はその健康を求めている。

 これに絡めて言えば、世の中には生まれつき、あるいは事故などにより、辛い心身の不調をずっと抱えたままの人は少なくないし(程度問題はともかく、私もその一人)、いくら「理想」といっても、当面はこういう身の上の人を皆無にするということはできない。それに、そんな世界は気持ち悪いと思う。ナチスは暴力的かつ近視眼的に、これを目指した。


 でも幾ら医学的な問題を抱えていても、人は健全な心を持ち、健全に暮らしていくことができる。だから、仮に今の私に、英語版憲法の再翻訳の全権を与えていただけれるなら、「健康で」は「健全で」にすると思う。では、「文化的な」はどうか。

 最低限の文化的な生活というと、幾らなんでも、たまには美術館でも行こうぜ、という雰囲気になってしまうのも淋しい。英語は過去分詞の「cultured」を使っており、すでに生活の中に文化がある状態を指すのだと考える。

 
 それでは最後に、「文化」とは何か。これを数行で、書こうとしている。自力では無理なので、司馬遼太郎のエッセイ「アメリカ素描」の卓見と威光を借りる。もう晩年と呼んでよい時期に、新聞に連載されたこの文章の中で、司馬さんは様々な角度から、文明と文化についての考察を重ねている。そのうち、ここでは二つだけ借用しよう。

 一つは、よく言われるように文化とは、その民族や土地に特有なもので、それ以外の人との共有はできない。しかしながら、その中にいる人にとっては、「安らぎ」や「安堵感」をもたらすものだという。私はこれを「居心地の良さ」という言葉で代表させて理解している。もちろん、この憲法第25条もそうだ。最低限の居心地の良さは、不可欠なのだ。


 だから、最近よくきく居場所がないという訴えは深刻なのだ。これはもちろん物理的なスペースのことを言っているのではないし、大活躍の機会がないという意味でもない。寸時も居心地の良さを味わえないということだ(そう、思い込んでいる場合も含め)。また、この居心地を悪くするような新憲法案を、創り上げようとするだけで、違憲である。

 もう一つ。前掲書の文中に、「文化とは基本的には、人と共に暮らすための行儀や規範のことで、母親の子宮内では養われず、出生後の家庭教育や村内での教育による。」と書かれている。「教育」という言葉は、あとから憲法に出てくるので覚えておこう。文化は後天的で社会的なものなのだ。つまり、健康で文化的な生活は、その育成とメインテナンスのために、不断の努力を要する。







(おわり)







諏訪神社にて  (2016年10月18日撮影)











































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