おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

神社合祀に関する意見  (第1348回)

 本は印刷物に限る。紙とインクの匂いは不可欠だ。というふうに、いろんな人に主張し、いろんなところに書いてきた。しかし、次の情けない理由二つにより、あっさり寝返った。一つは拙宅の書棚が本でいっぱいになり、置き場所がなくなったこと。もう一つは老眼が進行しており、だんだんとITのサイズ拡大の機能に頼るようになってきたこと。

 このため先週、「kindle」とやらのアプリケーションをインストールし、さっそく電子書籍を探し始めた。最初に買ったのが、手塚治虫のマンガ数冊。ここでネットは手回し良く、私が何回か入力した履歴をもとに、宮沢賢治南方熊楠の短編集をお勧めしてきた。なお、ほかにも格調が劣る本を選び抜いてきたが、紙面の都合で割愛する。


 宮沢賢治のは童話集・詩集で、南方熊楠は論文集だ。さっそく買った。南方先生のほうに、ひとつだけ色合いの異なる「神社合祀に関する意見」という文章が入っている。一読し、今回のテーマとタイトルに選んだ。他の資料によれば、学術論文ではなく書簡の一部か何かであるらしい。

 なるほどアカデミカルな形式にはなっていない。だが、当時の社会情勢も知らず、擬古文を読むのにも慣れていない百年後の中高年が、さしたる苦労もなく読めるというのは、よほどの文章表現や内容の豊かさが伴っているはずで、これだけの筆力の持ち主というと、私の愛読書では漱石と子規ぐらいだ。この三人はいずれも慶応三年生まれで、最後の徳川時代誕生の年代である。


 すぐあとで気づいたのだが、さすがは天下の青空文庫、すでに収録済みであった。買わなくても読めたか。せっかくなので、以下の引用は青空文庫さんの労作をお借りする。いつもお世話になります。

 南方熊楠というと奇人変人という人格や言動の側面が強調されやすいようで、また、研究対象も植物、特に日陰を好むような草花や菌類がお好きだったとあって、なかなか素人には馴染めない学問分野である。しかしこの意見書は、読ませる。


 冒頭の事実確認、それに続く問題点の所在、各論、結語と構成がしっかりしており、かつて大英博物館で働いていたし外国語が達者だったというから、欧米言語の論理構造をベースにしているような感じがする。このブログは、政治活動も市民運動もしていない私が一人で書いているから、典型的な書生論になっている。どうにもならない限界だ。

 でも、熊楠は(以下、敬意をこめて呼び捨て。子規や漱石と同じ。)、口先だけではなかったことが途中から分かる。お役人に抗議した。酒の力も借りたそうで、さぞや賑やかな騒動となったらしく、文中の表現によると「和歌山県当局は何の私怨もなきに、熊楠が合祀に反対するをにくみ、十八昼夜も入監せしめた」。豚箱に18日も放り込まれたらしい。


 われらの世代は、主に中等教育において、日本の歴史にも宗教弾圧があり、例えばキリシタンの迫害とか、廃仏毀釈とか、無宗教の私でも胸が悪くなるような前科がある。しかし、ヨーロッパのカトリックプロテスタントのように、戦争まで起こした騒動は教えておきながら、神道の間でも弾圧があったことは教わった覚えがない。

 熊楠が文頭で、事の発端として挙げている政府令の「明治三十九年十二月」という日付について、西暦では1906年である。日露戦争が終わった翌年。すでに、国家は戦費調達と思想統制のため、これほどの暴力的な行為に走り出している。東郷さんは、勝って兜の緒を締めよと訓示されたが、ほとんど全く誰も聞いていなかったらしい。何が起きたか、引用する。


 最初、明治三十九年十二月原内相が出せし合祀令は、一町村に一社を標準とせり。ただし地勢および祭祀理由において、特殊の事情あるもの、および特別の由緒書あるものにして維持確実なるものは合祀に及ばず、その特別の由緒とは左の五項なり。

 (1)『延喜式』および『六国史』所載の社および創立年代これに準ずべきもの、(2)勅祭社、準勅祭社、(3)皇室の御崇敬ありし神社(行幸、御幸、奉幣、祈願、殿社造営、神封、神領、神宝等の寄進ありし類)、(4)武門、武将、国造、国司、藩主、領主の崇敬ありし社(奉幣、祈願、社殿造営、社領、神宝等の寄進ありし類)、(5)祭神、当該地方に功績また縁故ありし神社。


 第一段落が原則。一つの町、一つの村に、神社は一つだけとし、他は合祀(実質的には廃絶が多かった由)しなければならない。第二段落が例外。これらは、複数残っても許す。五点あるが、(1)から(3)は国家神道そのもの。(4)と(5)では、やむなく地元に譲歩している。氏神様が典型だろう。春日神社や大宰府天満宮には、手が出せない。

 熊楠の生まれ故郷である和歌山と、隣りの三重の両県南部には熊野がある。熊楠の研究現場であり、さらに宇多法王の御代より「歴代の行幸、御幸、伊勢の大廟よりはるかに多く、およそ十四帝八十三回に及べり。その本宮は、中世実に日本国現世の神都のごとく尊崇され、諸帝みな京都より往復二十日ばかり山また山を踰こえて、一歩三礼して御参拝ありし。」というほどの由緒正しい聖地だったのだ。


 しかし、これが書かれた時点で、すでに地元の和歌山・三重などでは、深刻なまでに事態が進展していた。それらが荒らされて、どういうことになるか。終盤で熊楠は、もう一度、箇条書きでその災害の中身を端的に書き挙げている。

 「かくのごとく神社合祀は、第一に敬神思想を薄うし、第二、民の和融を妨げ、第三、地方の凋落を来たし、第四、人情風俗を害し、第五、愛郷心愛国心を減じ、第六、治安、民利を損じ、第七、史蹟、古伝を亡ぼし、第八、学術上貴重の天然紀念物を滅却す。
 当局はかくまで百方に大害ある合祀を奨励して、一方には愛国心、敬神思想を鼓吹し、鋭意国家の日進を謀ると称す。何ぞ下痢を停めんとて氷をくらうに異ならん。」


 最後の「第八」が、熊楠好きには最大の論点ということになるのだろうが、ここでは政教分離が課題なので、「第一」の「敬神思想を薄うし」の意味を確かめる。一町村に一社。大手だけ残す。あおりをくらうのは、新自由主義の経済理論と実践結果でいえば、商店街と労働者である。

 熊楠の論法を借りれば、それまで日本全国の隅々に神社が建てられ、村人の信仰を集めて来たのは、「電車鉄道の便利なく、人力車すら多く通ぜざる紀州鄙地の山岳重畳、平沙渺茫たる処にありては、到底遠路の神社に詣づること成らず。故に古来最寄りの地点に神明を勧請し、社を建て、産土神として朝夕参り、朔望には、必ず村中ことごとく参り、もって神恩を謝し、聖徳を仰ぐ。」という事情があったからだ。


 人々は日常的に、遠くの神社に行く時間も手段もない。そこで朝夕、歩いて日帰りできるくらいの範囲内に、昔の人たちは産土神(うぶすながみ)という土地の神様を祀った。集まる日は、1990年代に私が駐在していたカンボジアの人たちが村のお寺に集まる日と同じ、間違える心配のない朔望新月と満月の日、旧暦の毎月一日と十五日)だったそうだ。

 これらを片端から強制撤去し、運が良くても移転となった。小さな祠は川に流し、鎮守の森は伐採して、その売上は国庫か、誰かの懐に入っている。先を急ぐと、熊楠の怒りは有志の賛同を得て、この合祀令は後年、廃止に至った。しかし、こと既に遅かったばかりか、民間信仰の弾圧は形を変えて繰り返されたと、別の資料で読みました。既に戦争の準備段階で、われらが失うものも多いのだ。


 ある宗教・宗派が、別口の信者や宗教団体に対して、おそろしく厳しいことが多いのは、歴史を学んでも、現状をみても明らかだ。言い争いをしているうちはまだいい方で、片方が国家権力や軍事力と結びつくと、ネロや戦国大名のようなことになる。憲法第20条第1項は、それを予め禁じているのだ。それを除こうとしている者は誰なのか。

 かつて話題にした親戚が住む美濃の春日にある大きな神社や(名前を忘れてしまった)、実家のある静岡の浅間神社には、境内に全く関係がないはずの別の神様を祀る小さな祠が幾つもあって、なぜなのだろうと訝しく思っていたのだが、こういう事情があったのかもしれない。


 それでも都心でさえ、私の背より小さな鳥居とお社が一対だけある神社を複数知っているし、お地蔵さんや道祖神、由緒も残っていない塚などは近所にも多い。神主も住職もいないが、信者かご近所か、いつも瑞々しい花が活けてあり、我が家よりずっと綺麗に清掃されている。

 散歩していると、ときどき前を歩く買い物カゴなどをさげた人が、一瞬立ち止まって手を合わせていくのを見かける。信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。確かに、戦前が好きな人にとっては、邪魔で仕方がない戦後レジームなのだろう。




(おわり)




近所のお稲荷さん。どういう因果か、お寺の境内にあり、毎朝、若いお坊さんが周囲を掃き清めている。目が合うと、挨拶してくれる。
(2016年3月31日撮影)






三河島の蛇塚。由緒は不詳とか。
(2016年6月5日撮影)































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