おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

公僕  (第1339回)

 頼まれもせずブログを書きながら、「疲れて来た」とぼやいている間抜けな私である。憲法の初歩的な勉強をしようという初心、および、そのために選んだ、現在の憲法と、たまたま見つけた自民党の最新改正案を比較検討するという手法は、適切なものであったと思う。

 問題は、その改正草案の出来栄えが想像以上に粗雑としか感じられず、はっきり分かる部分は賛成しかねるものばかりという点にある。だからといって、これが最新情報であり、改憲の動きがある間は、途中でやめられない。


 今回は公務員関連条項の後半で、前回の話題だった第15条の残り、すなわち第2項と第4項を対象とする。現行の第2項は、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」とあり、ここは改正草案も仮名遣いを変えているだけ。ただし、そもそも現行の意味が分かり辛くないか。「全体の奉仕者」とは何でしょう。

 これは英語版のほうが明確である。「All public officials are servants of the whole community and not of any group thereof.」。公務員は、「パブリック・サーバント」と英訳されることが多いと思うが、ここではご覧のとおり法律で定められた「公務員」という身分・職種というよりも、公的な役職の者という一般的な職務名「パブリック・オフィシャルズ」が主語になっている。


 小学生のころだったか漫画を読んでいたら、その登場人物が警官と口ゲンカをしているシーンで、「何を、この公僕」と、ののしるセリフが出てきて、公僕という言葉を知った。かつては、警官にしろ(祖父がそうだった)、役人にしろ教師にしろ、無闇に威張るおっさんが多かったのは間違いなく、庶民は公僕と呼んで対抗していたらしい。

 程度問題にしろ、最近は公務員も物腰が柔らかく、良く働く人が増えたという感覚を持っているため、公僕もとっくに死語になっているかと思いきや、意外とネットの検索結果などによく出てくる。ただし、「威張りやがって」という古典的な悪口は、あまり見られない。


 むしろ、よほど悪いことをしないとクビにならないし、給与も年金も恵まれ過ぎているというような、切実というかルサンチマンというか、差別用語の意味合いに変化があるようだ。また、おそらく公務員の書き込みと思えるものには、下僕ではないのに、その言い方はないだろうという淋しいものもある。

 英語版では上記のとおり「サーバント」で、サンチョ・パンサや弁慶のような独立した人格を持つ者も、たまたま生まれや経緯があって、やっかいな御主人に使える羽目になっただけであり、勧進帳で暴れようと従僕に含まれると思うのだが、日本語訳が「奉仕者」になっているからか、人によっては一方的な献身・従属と勘違いしているのではなかろうか。


 私がロサンゼルスに住んでいたころのLAPDコロンボ警部の勤め先、ロサンゼルス市警)のパトロール・カーの横っ腹には、「TO PROTECT AND TO SERVE」と書いてあった。市民のみなさんを守り、お役に立つという意味である。本来、公務員は、市民のみなさんが簡単にできない犯罪捜査や義務教育や税金の徴収を行う専門家集団であって、奉仕するが命令を受ける立場ではない。

 それなのに、先日も公務員の方々と仕事の話のあとで雑談を交わしていたら、その住民のみなさんからのクレームが、いまや行政の重要課題になっているらしい。クレームの内容ではなくて、クレーマーの駆除のことである(そうは言わなかったが)。ご存じのように、学校でも酷い。言い返せない相手を罵倒するというのを、権利の濫用というのだ。


 さて、「全体の奉仕者」の解読に戻ろう。全体というのは、「the whole community」となっている。想像力を働かせるしかないが、当然ながら公務員によって担当する分野や地域(行政用語でいう所轄)は異なるから、その担当している共同体の全体に役立てと言っているのだろう。

 なぜこんな当たり前のことを憲法が書いているかというと、その続きにあるように「その中の一グループだけに奉仕するな」というほうが重要なのであって、分かりやすい例が、国会議員のくせに、地元への利益誘導ばかりするな(≒求めるな)ということだ。民主主義の理念に即していえば、少数派の意見を無視するなということでもある。


 最後に第4項。現行は「すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。 」である。

 これが改正草案では、冒頭の「すべて」が削除され、「これを侵してはならない」が、「侵されない」になって、またしても受動態に変えることにより、容疑者候補の存在を曖昧にしようとしている。後半は同じ。

 文中の「投票の秘密」と「責任は問われない」という文言について、まず、後者につき英語版を参考に補足すると、どういう投票をしたかと訊かれても答える責任は無いという意味である。これは選挙人(投票者)に関する規定である。一方、前者の「投票の秘密」とは、投票用紙や投票の方法に関する定めだろう。


 いずれにしても、選挙は大事なことを決める決定的な手段だから、誰が誰(何)に投票したかという事実は、予め記名投票で公開すると言われて投票したのでない限り、結果が漏れると人間関係や利害に深刻な損害を与えかねない。

 さらに言えば、そういう結果を招かなくても、そういう恐れがあるところでは、まともな投票すらできない。疑心暗鬼や恐怖が共同体を支配する。このあたりの事情を、鋭く厳しく中学生の私に教えてくれたのは、菊池寛の短編小説「入れ札」である。著作権が切れているので、ネットでも読める。本当に短いので、ぜひ読んでください。

 ちなみに、先般の参院選では、野党の選挙事務所に無断で、地元の警察が監視カメラを設置して盗撮するという事件が起きた。なぜメディアは追わないのだろう。あるいは、本当に重大な凶悪犯罪の容疑者を捜していたのかもしれないが、そうならそうで、その結果(立件か時効成立か)が出た時点で、当事者は説明責任を果たさなければならない。


 最後に軽く頭の体操をして、クール・ダウンします。日本の国政選挙等は、一人一票、投票一回限りという、一発勝負である。しかし、海外のニュースをみていると、ご存知のとおり、外国や国際組織では、別の方法も少なからず活用されている。よくみるのが、誰も過半数を取らなかったら、上位何名かで再選挙というもの。

 私が面白いと思うのは、手間暇がかかって面倒ではあるけれども、最下位の候補だけが脱落し、最後に一対一で決着をつけるまで投票を繰り返すという方法です。オリンピックの開催地選びで使うことがありますね。心臓に悪い。単純な例を設定すると、そのメリットが分かる。


 たとえば、候補者がABCの3名いるとして、それぞれ仮に一発勝負ならば、この人を選ぶという支持者の割合が、A:45%、B:30%、C:25%とする。十分あり得る事態である。一発勝負なら、Aの勝ち。だが、これだけが唯一の、あるいは常に最良の民意の反映方法か。

 BとCの支持者は、Aが選ばれるくらいなら、最下位で支持者が落ちたあとは、Bが駄目ならC、Cが駄目ならBと考えるということもあるはずだ。日本の国政選挙や首長選挙などの制度では、それが表面化しないだけである。BCが強力な野党連合でも組み、決勝戦で共同戦線を張れば、どちらが決勝に残っても「B+C」の55%で、Aに勝つ。


 これは積極的な支持者が最も多い人を選ぶのではなく、この人なら選んでよいという消極的な賛成者も含めた多数決で、どちらの方法が正しいとか合理的だとかいうものではない。言い方を換えれば、選びたくない人の選挙であり、古代ギリシャ陶片追放みたい。

 利点としては、一発勝負と比べて、結果にうんざりする投票者が減るだろう。しかし、欠点というかリスクとしては、強力なリーダーを必要としている時代に、得てしてパワフルな指導者は敵も多いだろうから、最善の候補者を落すおそれがある。ところで、みなさんは、最大与党の総裁の選挙方法をご存じでしょうか。






(おわり)





ガイアのしもべ、火の鳥
(2016年8月26日撮影)




















































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