おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

「認」のはじまり  (第1308回)

 ようやく事前準備として、「黒田家譜」と「尊卑分脈」のご案内が終わったので、次は先ごろ写真だけ載せて読み辛いままにしてある「認」に何が書いてあるかを確認する作業に移る。これが本当なら凄いっちゃ凄い。何せ先祖は皇族なのだ。前回申し上げたように宇多天皇の流れである。

 だが、思えば尊しだけれど、更に思えば皇族の子孫は真面目に考えると無数にいるのではなかろうか。なんせ千年以上前から万世一系であり、お人によってはお子さんの多いこと。むしろ今の日本人で皇室の血が一滴も入っていない人を探すほうが難しいかもしれない。そんな訳であまり肩に力を入れずに読む。まずは三分割した写真の最初の部分を再掲。


 現物がないので記憶に頼れば、上下に見える緑色の部分がいわば台紙であり、固くて丸めても大丈夫なようにできている。それに薄茶色の薄い紙を張り付けて、そこに文字が墨で書かれている。正式には知らないが、擬古文というのだろうか? ごく一部を除き、私でも全く支障なく読める。では、適宜、空白など入れつつ、横書きの活字で再録しよう。太字の部分が「認」の本文の冒頭である。

 
 

 吾先祖は宇多源氏より出で 源雅信孫 択儀之子 成頼
 近江国 佐々木之荘に住し 佐々木源氏と称す 男四子有り
 長子を章経 次子を経方 三子を秀定 四氏を秀義と云い
 秀義を佐々木源三秀義と称す
 

 いきなり省略がある。いい度胸と言わねばなるまい。宇多天皇も子だくさんであり、「源源信」は宇多天皇のお孫さんに当たる。上記はこの間の子が抜けている。敦實親王(あつざねしんのう)と仰る。彼の長兄が醍醐天皇となり天皇家を継いだため、子の源信の世代から源の姓を賜り皇室から離れたらしい。

 省略の次は誤字である。もっとも、理論的には常にこちらの方が正しいかもしれないと言えないことはないのだが、「尊卑分脈」も「黒田家譜」も、源信の子は「択儀」ではなく「扶義」になっていて勝ち目はない。「ふぎ」さんであろうか。何か優しそうなお名前。その子が「源成頼」であることは全会一致で問題がない。

 この成頼の時代に近江に出た。あるいは京都から追い出された。そこらへんの消息は不明だが、例えば、貴族から武士になったのだろう。つまり佐々木源氏の始まりである。あまり先を急ぐこともないので、次回は宇多天皇の話題を拾おう。私は大学時代、京都に住んでいた。近江は旅行しかしたことがないけれども、いずれにせよあの辺は懐かしい。寒かったが。



(この稿おわり)

















































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