おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

5月1日 志村  (第1261回)

4月30日の朝刊を眺めていたら、いつもは見ないテレビ欄に目が留まり、志村けんが翌5月1日のNHK「朝の連続テレビ小説」に出るとありました。翌朝は、数十年ぶりに朝ドラを観て、最後のほうに真面目な顔つきで出てきた志村に別れを告げた。

志村が入院したのは、ここ日本でもCOVID-19 が大騒ぎになった3月下旬のことだった。亡くなった29日は自宅兼事務所で、デスクワークをしておりました。彼の病死の速報は、在宅勤務中のはずの妻が、なぜかテレビのテロップで見て伝えてきた。しばらく、ぼんやりしておりました。


その時期はすでにCOVID-19 の特徴の一つとして、高齢者が特に重症化しやすいというのは知れ渡っていたのだが、元気な彼のことだから、やっぱり大丈夫だあと帰ってくると期待していたのだが、しかし享年七十と聞き、すでに学術用語でいう前期高齢者だし、でも実は、そんなに若かったのかと思った。私より十歳上にすぎない。

彼が荒井注と交代でドリフターズに入ったのは、私が中学生のときだから、当時まだ二十代半ばだったということになります。こちらは中学生ともなると体育会系の部活やら試験勉強やら友達付き合いやらで、テレビから遠ざかった。実家は今も昔も、テレビは居間に一台しかなく、その「チャンネル権」は、時代を超えて母が独占している。


それでも十代のころ、たまには全員集合を観たのだが、今も覚えているのは、「志村、うしろ、うしろ」のアドリブ。志村が物陰に隠れ、うちろから忍び寄ってきた幽霊をわっと驚かすという至芸で、これにはドリフを馬鹿にしていた親も、つい吹き出しておりました。でも、それっきり、ドリフどころかテレビそのものを見なくなった。

三十年代の前半、私は東村山市民でございました。富士見町というところで、小平に近い。そばに野火止用水が流れていて、水路脇の木立を伝って尾長鳥が飛んでいく。子供が生後半年から三歳のころで、休みの日には西武鉄道の黄色い電車を一緒に見物に行き、商店街のラーメン屋で大盛りを注文すると、黙っていてもおばちゃんが子供用の取り皿を出してくれる。


そのころ住所地を訊かれて東村山と答えると、私より年上は加藤茶の時代なので反応が鈍いが、年下には必ず受けた。中には、「一度はおいでよ三丁目」と歌いだす者までおった。当時は転職間際で仕事は大変だったが、懐かしい思い出ばかりの東村山です。

今はテレビも、情報系(ニュースやドキュメンタリー)か、スポーツ・映画を時々見る程度なので、例えばバラエティやドラマは全く知らない。マツコ・デラックスの声も、きゃりーぱみゅぱみゅの顔も知らない。嵐のメンバーは顔も名も、そもそも人数も知らない。飲み会のときに寂しい思いをすることがございます。


以下は、不謹慎と思われても仕方がないが、実感したことなので書き残します。仮に亡くなった著名人が若い俳優とか歌手だったら、おそろしく気の滅入るだけの報せになったはずです。でも志村だった。追悼番組で笑えるというのは滅多にない。私が観たのは、いしのようことのコントだったです。みんな、笑いましたよね? 志村だもん。追悼にバカ殿。

対照的だったのは、コロナウイルスとは直接関係ないが、女子プロレスラーの木村花さんの訃報でした。悪質極まる人殺しだ。最後に女子プロを見たのはビューティーペアのころなので知らないお人だったが、まだ22歳とは。彼女のニュースは、どの局見たか覚えていないが、最後に木村は切れ味のよいブレーンバスターで決めた。

花さんはヒールだったそうだが、むかし八名信夫が雑誌の取材に応え、こんなことを語っていたものだ。人の心の痛みが分からん奴に、悪役はできねえ。コメディアンもそうなのかなと、志村を知る人たちの弔辞を聞きながら思った。ピエロの顔化粧は、なぜ涙がこぼれているのだろう。



(おわり)




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新緑の上野恩賜公園  (2020年5月1日撮影)





















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