おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

4月8日 台湾  (第1250回)

今回はかなりの個人的な意見を含めます。かつて銀行に勤めていた若かりしころ、海外の金融機関や公的機関などとの間での信用取引(融資や外国為替)の担当者だった時期が何年間かありました。日本国内の法人個人の融資係も経験しましたが、国内なら相手の信用度(財務諸表や担保など)を確認するだけですが、海外ではもう一つの指標が欠かせない。

これを私の職場では当時、カントリー・リスクと呼んでいました。取引相手の組織がいかに信用に値しようと、その国が例えば軍事独裁政権だったり、当時のことですから「東側」の共産主義国だったりすると「危ない」。このため、相手組織のカンパニー・リスクと、所在国のカントリー・リスクを掛け算するような発想で臨んでおりました。


今でもはっきり覚えていますが、中国と台湾、そして当時英国領だった香港には、それぞれ別々のカントリー・リスクが設定されていました。もちろん文革直後の中国より、台湾のほうが上だった。社会人になったばかりのころから、こういう発想の中で働いてきましたので、当時も今も私にとって、大陸中国と台湾は別の国です。

しかし、日本国は台湾を国家と認めていない。何かとキナ臭いアジアの近隣に、台湾と北朝鮮という国交のない国が二つもあります。台湾島にある中華民国とは、かつて国交があったのに、経済優先で中国との国交を「正常化」したため、台湾とは国交断絶に至りました。一昔前なら、一方的な国交断絶は宣戦布告とほぼ同義です。


この件で外務省の職員と一揉めしたことがある。相手は普段、人柄も頭もよい外交官でしたが、雑談の中で私が台湾を独立国扱いするようなことを言ったところ、「いつから台湾は独立したの!」と公衆の面前で罵倒されました。相手にしなかったところ、黙ってしまった。

そのあと以前の人間関係に戻りましたので、これは彼女の脊髄反射のようなものだったのだろうと思います。その場にいた人が後に、あの人はチャイナ・スクールのOGなんだと教えてくれました。だから何じゃ。最近も中国に札束で横面ひっぱたかれて、国交の相手を台湾から中国に変えた国が複数あります。


4月8日、スイスのジュネーヴ、WHOは定例の記者会見を開きました。議事録が今もWHOのサイトにあります。このとき、テドロス事務局長は、こう発言しました。まずは英語。

When as a community people start to insult us that's enough. That's enough. We cannot tolerate that but since I don't have any inferiority complex when I am personally affected or attacked by racial slurs I don't care because I'm a very proud black person or negro. I don't care even about being called negro. I am. That's what came from some quarters and if you want me to be specific, three months ago this attack came from Taiwan.

We need to be honest. I will be straight today. From Taiwan. Taiwan, the Foreign Ministry also, knew the campaign. They didn't disassociate themselves. They even started criticizing me in the middle of all those insult and slurs but I didn't care; three months. I say it today because it's enough but still they can continue. I don't care because what I care about is when humanity is insulted, when we don't care when we have more than 60,000 body bags.


議事全文を読んではいないことをお断りしつつ、この箇所だけ読む限り、感染症とは直接の関係はなさそうで、人種差別の文脈に出てきます。日本でも報道されました。たいてい、日本経済のお得意様である中国寄りにみえる日本経済新聞の記事にもある。

4月10日の日経の続報は、なぜ事務局長が怒ったのか具体的に触れている。またもこの種の話題かと思うのだが、台湾人を名乗る者がTwitterで激しく事務局長個人を攻撃したらしい。台湾は、中国人による「なりすまし」だと反論しました。


私には事の真偽など分からないし、ありそうな話だなと思う程度で(変な簡略体の漢字で迷惑メールが時々来るし)、この後どうなったのかすら知らない。それよりも日経の報道にあるように、台湾の蔡英文(ツァイ・インウェン)総統を怒らせたのが強く印象に残っている。怒るのは当然だが、それよりも以下、彼女が語った言葉の一部についてです。

正確にはネットに書いた言葉ですが、彼女のFacebookに残っている。4月9日付だから、時差のことを考えると即時、反撃に出たのだろう。冒頭、「無礼者」と一刀両断に付している。


しかし続きは、テドロスに、世界各国に、そして台湾の国民に向けて、情理を尽くした達意の文章であり、このCOVID-19 騒動の中で(今のところ)、最も強く私の記憶に残るものです。いわく、長年にわたり、台湾は国際社会において差別と孤立の中に置かれたままである。

中国の台湾排斥は異常な情熱と執念を以て続けられており、WHOを含む国連に台湾の席がないのはもちろん、最近はオリンピックの入場式などのアナウンスでも、他者が台湾の名を使うのを許さず、腰の低い人たちは「チャイニース・タイペイ」などと呼んでいる。


むかしロサンゼルスで何人かのタイワニーズ・アメリカン(台湾から来て米国製を得ている人たち)と楽しく仕事や食事をしていた懐かしい思い出を大事にしている私としては(念のため、チャイニーズともコリアンとも同じです)、この横暴とイジメが許せない。

しかし、改めて蔡英文に国際社会における差別と孤立と言われてみると、私憤で済ませている場合ではないように思えてきました。これまで東日本大震災のときなど、大きな災害があるたびに、台湾はほとんど真っ先に巨額の支援金や支援物資を送ってくれています。


そのたび私達は親日国と呼んで感謝し歓迎してきました。でもこれは贈答品ではなく、孤独な長距離ランナーの叫びです。これからも繰り返されるであろう。そのたびに、もうかつてのように「善い人達」では済まされなくなった。よほどの反証がない限り、テドロス事務局長は、沈黙せざるを得ないと思う。

蔡総統は、返す刀で「いっぺん台湾にお越し」と述べており、さらに後日、次のWHO総会は台湾で開催してくれと提案している。まずい相手を怒わせたものです。さらに、実績がものを言っている。軍艦でクラスターが発生するなどの出来事は起きているものの、台湾の死亡者数の少なさには驚く。


私の知る限り、台湾では経済活動の制限はほとんど行っていないはずだ。落ち着いたら、台湾と韓国にはじっくり今次対策について教えを請わなくてはいけない。祖父母の時代には、やれ外地だの三国人だのと小馬鹿にしていたが、もはやGDPが幾らだろうと先進国面できまい。相手には本物のIT大臣もおります。

アメリカ合衆国ドナルド・トランプ大統領は、怒髪天を衝いた台湾の尻馬に乗り、4月14日、WHOへの拠出金を当面停止すると公表しました。WHOにとって米国は、拠出金額第一位の筆頭の出資者です。

この経済制裁は効くだろうが、国連は株式会社ではない。発言権はもちろんあるが、金額に応じてマネージメントに口を出せるというものではない。実力行使を本当にやると世界中の保健活動の足を引っ張る結果になります。いつもの打ち上げ花火で済ませなさい。


台湾には一度だけ短い観光旅行に行っただけだが、台北の料理の美味しさと、かつて神風特攻隊の基地があった花蓮の郊外の風景と女性の美しさが鮮やかに記憶に残っている。それはともかく、感染拡大に伴い、多くの国に台湾からマスクが届き始め、日本にはフェイスシールドや防護服まで来た。

借りは大きいぞ。思えば、小学生だった1970年、大阪万博が開催されました。あのとき、中華民国館があり、中華人民共和国館はなかった。後年日本にあんな仕打ちを受けても、一緒に働いたタイワニーズたちには、「あんたも台湾に生まれていればモテたよ」と言われておりました。


話題がもう一つ、英国で疫学を勉学中の台湾娘が、YouTubeに公開訴状を載せた。私は毎朝起きるとヤフーとグーグルのニュースに目を通すことから一日を始める。このJPプレスさんの記事は、確かヤフー・ニュースで読んだと思う。

こう言っている。事務局長を受任したときの誓いである「政治ではなく、世界の人々の健康を第一とする」を忘れないでください。林薇さん、将来は蔡総統の後継者になっているかもしれない。個人的には何代あとでもいいから、テドロス氏の後釜に据えたい。



(おわり)




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花蓮の郊外にて  (2007年2月28日撮影)



















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