おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

オリンピックのボイコット  (第1145回)

 ボイコットという言葉も当節、聞かなくなった。意図的なドタキャンみたいなものか。今どき、オリンピックをボイコットしよう言ったら大炎上するに違いない。幸い、下手の横好きでスポーツもオリンピックも好きだから、今回も楽しみにしている。

 日本もかつて、おそらくアメリカの圧力により、オリンピックを全面的にボイコットしたことがある。それは、1980年、自分の大学時代に起きた。前にも、ここで書いたかもしれないが、ふと思い出したのでもう一度、記録しておこう。


 私は「冷戦」という言葉が嫌いだという文脈で書いたかもしれない。第二次大戦後からソ連の崩壊まで、国際社会が東側と西側に分かれていた時代のことであり、今となっては石器時代と変わらない大昔の印象がある。

 冷戦とは、東西の白人種が殆ど戦争しなかったという程度の意味合いで、その間、アジアでもアフリカでもラテン・アメリカでも、米ソのどちらかから資金や兵器の援助を陰で受けていた陣営同士が、大国の代理戦争(プロクシー・ファイト)をやらされていた。


 すでに大戦直後には、ベトナム朝鮮半島もドイツも、冷戦の前哨戦のような意地の張り合いにつき合わされて、散々な目に遭っている。朝鮮半島は、今なお困っているではないか。日本はこの点、運が良かったとしか私には言いようがない。

 かつて駐在していたカンボジアも、酷い内戦が続いた。その一環で起きたのが、ソ連によるアフガニスタンへの侵攻。ランボー怒りのアフガンは、こちらのほうだ。記録を見ると、戦死者といい期間といい、どうみても戦争なのだが、なぜ侵攻のままなのだろう。


 これに腹を立てたアメリカが1980年のモスクワ・オリンピックを欠席し、欧州や日本を巻き添えにした。幼稚園児並みの仕返しをすべく、次の1984年のロサンゼルス・オリンピックを、ソ連が東側諸国を道づれにしてボイコット返しをした。安く済んで黒字になった。

 このころから、オリンピックは、アマチュア・スポーツの祭典という看板を下ろし、プロだろうとドーピングだろうと、とにかく旗を掲揚するためなら何でもありの国際公共事業になった。おかげで、よほどのことがない限り、ボイコットする国はなくなったな。


 ソ連アフガニスタン侵攻は、私の人生にほんの少し関係した。大げさに言えば、短期間だが自分の生命が一番、墓場に近いところをさまよった。1990年代の初頭、業務出張でパキスタンの第二の都市、カラチに行ったときのことだ。

 アフガニスタンはインランド・カントリー、海に面していない内陸国である。このため、裏の支援国アメリカは、アフガニスタンとインド洋の間にあるパキスタンを経由して、大量の武器弾薬をアフガニスタンに供与したらしい。


 天下のカイバル峠が両国の境にある。わが家のAIの名付け親であるアレクサンダーも、三蔵法師も、チンギスハンも、この峠を越えたらしい。近くまで行ったが、治安が悪くて通行止めに遭った。インダス川の水量がすごかったのを覚えている。

 カラチに行く前から、政情治安が不安定と聞いてはいたのだ。少し前にソ連が全面撤退したため、アメリカが搬送した武器が、途中のパキスタンにもあふれ返ったらしい。現地の元軍人という英語のできる男から、電話一本でマシンガンもバズーカ砲もレンタルできると聞いた。

 隣村に向けて巨大な機関銃が三脚に据え付けてあったから、説得力充分。「撃ってみるか?」とその男に訊かれた。次の機会にお願いしますと謝絶して帰りました。撃ったら、隣村から返礼が来るに違いない。


 カラチでは一週間ほどの滞在で、先方が得する契約の下打ち合わせのような用件。このため相手は重要人物だが、こちらは私のような中堅社員が調査団長。話は順調に進み、明朝、合意文書に署名して帰国するというところまで相談が纏まったときに、相手の高官の電話が鳴った。深刻な顔で話をしている。

 会話が終わってから彼は席を立ち、悪いが帰る、契約はまた次の機会にお願いしますときた。理由を尋ねたところ、娘が危ないので今から学校に迎えに行くのだという。本当に行ってしまった。


 現地雇用のコーディネーターに調べてもらったところ、本当に内乱状態で、警察官まで次々と射殺されているという。幸いホテルが近かったので、そこまで退避し、一晩過ごせば何とかなるかもしれないと思って寝た。こういう時に限って、酒が飲めない国だ。

 一晩過ぎて、ホテルに状況を尋ねたところ、あんたたちが雇ったタクシーの運転手は逃げたよとのことだった。調査団長としては、逃げるか、閉じこもるか決めないといけない。ネットもない時代、情報不足なのが却って幸いしたか、全員一致で、逃げようということになった。


 おそらく、白タクの運ちゃんの年収に相当するくらいの額を、私がポケット・マネーで出すという条件で、ようやく命知らずを一人見つけ出し、コーディネーターから「赤信号でも絶対停まるな」と言い含めて、空港まですっ飛ばした。道路には人の姿が見えなかった。

 その空港でも、ほんの少し前に、知り合いの日本人がホールド・アップに遭っている。お会いしたとき、「気を付けて行ってください」と真顔で言われたのを覚えている。気を付けたんだけれどね。相手が米ソではなあ。この両者を敵に回したのは、アフガニスタンと日本ぐらいだろう。

 それで騒ぎが終わったわけではない。この長いソ連の侵略時代に生まれたのがタリバン、そのタリバンが育てたのがアルカイダだ。ビンラディンがどこで殺害されたか、ご記憶のことと思う。見方によっては第二次世界大戦は、まだ終わっていない。世界の天地は、複雑怪奇なのだ。


 平昌は若い人たちが活躍しそうな気配があるので期待しています。開催国は日本との約束を一方的に破っており、ソ連とアフガンより身近な問題だと思うのだが、幸い今のところ、日本政府はボイコットのボの字も出していないようで(若者とTV老人の支持率が下がるだろうからねえ)、首相が行くの行かないのという程度で済んでいる様子(ちなみに、主催者は東京都であって、日本政府ではないのだが)。

 その点はリオでマリオネットの真似をしていたくらいだから、目立ちたがりが行かない訳がない。思いっきり政治利用しても、誰も文句を言わなくなった。もっとも、日本の国際社会における振る舞いを最終決定するのは、あのスランプ大統領だそうだから困る。ともあれ、ミュンヘンのときのような悲劇が、二度と起きないことを祈るほかはない。それから、雪は降っているのだろうか。



(おわり)




私のデジカメでは、これが精一杯。
(2018年1月31日撮影の皆既月食











 傷つけあって生きるより
 慰めあって別れよう

   「外は白い雪の夜」 吉田拓郎












































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