おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

お祖母さんの心意気  (第1190回)

 今回は他のサイトに書いたものを、少し修正して再掲します。 
 いくさは、平和のためにせよと言ったのは、陸軍少将秋山好古。1904年、日露戦役の遼陽会戦で、秋山少将は騎兵と歩兵の混成部隊を率いることになったため、秋山支隊と命名されて、最左翼を担うことになった。前方にミシチェンコのコサック騎兵が蝟集している。

 緊張が高まる陣中から、秋山が実家に送った手紙が、司馬遼太郎坂の上の雲」に転載されている。冒頭の「お祖母さん」というのは、推測ですが、彼には既に子がいるはずなので、彼の母(孫の祖母)ではないかと思う。実母の貞はこの翌年に亡くなり、秋山兄弟は死に目に会えなかった。


 お祖母さんの心意気
 戦などやめて
 平和に暮らしたい
 戦は平和のためにせよ


 これが陸軍少将の手紙であろうか。将士の手紙は検閲を受けなかったという話を聞いたことがあるが、まことに幸いであった。続きに、司馬遼太郎の寸評がある。「好古はまれに漢詩や歌をつくることがあったが、おそろしくへたであった。これは歌にもなにもなっていないが、この陣中での心境のひとつであったらしい」。

 秋山の信さんは、戦の時代に生まれていなければ、教育者になっただろうと思う。陸軍でも教育総監を勤めたが、それより、職業人生の最初が小学校の先生で、最後が校長先生。その間、通常、地道に登っていく坂道たるべき教師の職歴が全くない。幾ら激動の時代とはいえ、司馬風に言えば、古今東西に稀であろう。


 私と同郷の戦場カメラマン柳田芙美緒は、初めからプロの写真家だった訳ではなく、自著「静岡連隊写真集」の略歴に、静岡県出身で「父なし、母柳田タカを失い、自殺を図り果たせず、昭和五年、静岡連隊第九中隊に現役入隊」とある。父なし、か。

 昭和五年は私の亡父の生まれた年でもあり、この時点で静岡に連隊は一つしかない。歩兵第三十四聯隊。うちの伯父の先輩にあたる。北支に派遣され、一等兵で戻ってから戦場写真家になった。彼の講演録や新聞記事などをまとめた「静岡連隊物語」(静岡新聞社編)に収録されている記事「思い出の静岡三十四連隊」に、彼はこう書いている。昭和十二年、同連隊が、上海に向けて発つ日。

ここだけでなく、どこもかしこも、軍も民も官も燃えすぎていた。もしもこの頃、少しでも戦争の空しさ、かなしさ、国の行方をつぶやいているものがあったとしたなら、それは口を閉ざしていた日本中の女性ぐらいじゃなかったかと、わびしく思う。


 私が本格的に初めて戦史を読んだ伯父の戦死地、テニアンの戦いは、あっという間に全滅というような敗戦になったが、ガダルカナルでは、最期の一言を遺す余裕があった兵士も少なくなかったようで、戦友の回想によく出てきます。圧倒的に、「おかあさん」が多い。

 自ら父親である私としては少し寂しいが、「おとうさん」は皆無だ(家族全員の名を呼んで、というのはあるが)。天皇陛下万歳や、大日本帝国万歳は、自決やバンザイ突撃の際の掛け声で、たまに聞いた程度とか、一度も聞いたことがないと言い切る人もいる。


 最初のうちは、正直言って「最後にママかよ」と思っておりました。お恥ずかしい。腹を痛めた人に、親父は敵わない。異国の地でこの世から去り行く若者は、自分がいなくなったら、誰が一番、悲しむかよく分かっていたのだ。

 日本の成人女性が、国政選挙の投票権を得たのは、戦後になってからのことである。何も無理してまで輝かなくてもよいと思うが、特に来年は、投票にはぜひ出かけてください。この七十年余の平和を勝ち取った人々のために。




(おわり)



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都心の夕暮れ。右端に富士山が見える。 
(2018年12月25日撮影)



 父母が頭かき撫て幸あれていひし言葉せ忘れかねつる  「万葉集」 防人の歌