おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

浦川君  (第1133回)

 前回の続きです。いじめとは、難しい問題に手を出したなあと実感しているところ。余談から始めると、私のPCでGoogleの検索をしようとしたとき、「君たちはどう生きるか」の著者名を入れたところ、例の押しつけがましい検索候補の一つに、「吉野源三郎 共産主義」と出てきた。

 ずっと前に書いたように思うが、私は経済学部経済学科の卒で、当時の講義やゼミは約7割がマルクス経済、残りが近代経済と言われていた。そういう時代だったので、私もマル経の初歩ぐらいは勉強したが、この作品の吉野源三郎や、解説文の丸山真男が、ゴリゴリのマルキストとは到底思えない。


 戦前にこういう本を書くにあたり、たぶん他の概念が見あたらず、「生産関係」というマルクスの用語を借用しているが、この本を読んで共産主義の教科書だと主張する者は、いっぺん人間ドックで頭のMRIでも受けてみることをお勧めする。中身がスカスカであっても責任は持てない。

 私自身、共産主義国家で生きるなんて御免被るが、若き日の学問だったから、何かと影響は受けていると思う。例えば最初に読んだとき、主役級は金持ちの子供ばっかりではないかと思った。丸山も「階級」という言葉を持ち出して、時代的な違和感を唱えている。


 同級生の浦川君は、「年中みんなに玩具(おもちゃ)にされて、からかわれている」。「からかう」というのは、「いじめる」より語感は軽いと思うが、いま同じことをしたら、「いじめ」になるだろうな。

 著者はその理由として浦川君が、(1)外見がさえないこと(体型や服装)、(2)そこで競われる力に乏しいこと(学校なので体育や勉強)、(3)授業中に眠ってばかりという態度、そして(4)身なり、持ち物、笑い方や口のきき方まで、貧乏臭く田舎染みているという設定をしている。


 上記の(1)容貌や、(2)能力については、いまではそういうことで差別してはいけないという理屈は広まってきた。それでも、われわれの潜在意識は、それほど潔癖ではない。(3)の勤怠も含め、職場のパワー・ハラスメントで頻発している暴言は、こういったものを材料にして、立場の弱い者を誹謗中傷する。

 一方、作者が強調しているのは、文脈からして明らかに(4)の貧乏くさいという点で、あだ名の「アブラゲ」がその一例だ。彼の家は豆腐屋で、早朝から家業を手伝っているため、授業中に睡眠時間を取り戻しているのだが、学校という共同体は容赦がない。そうでないと鍛錬にならない。


 水谷君は豪邸に住んでいる。浦川君と援け援けられの関係を築いた北見君は、父親が予備とはいえ陸軍大佐だから、それ相応の収入も資産もあるだろうし、学校に敵対的な態度までとれる「階級」に属している。

 コペル君は父親を亡くして転居を余儀なくされたとはいえ、ばあやと女中がいる身の上で、学業も優秀。今でいう周囲の「キャラクター設定」がこうなっているのは、みんなして貧乏だと浦川君の境遇が引き立たないからだ。もっともコペル君だけは母子家庭で、みんなと比べて一つ支えが無い。そこで叔父さんの出番がきた。


 学術的に「階級」と「階層」という言葉にどういう違いがあるのか知らないが、私は自分なりに使い分けていて、階級というのは武士階級みたいに、世代を超えて固定的なもので、他方、階層というのは上流下流の社会階層のごとく、破産したらすぐに終わりというような一個人の人生においても流動的なもの。

 カーストは人種と同様、階級の典型的なもので、このため、私は「スクール・カースト」という言葉に強い嫌悪感を覚えつつ、もし実態が階級の違いになってしまっているとしたら(世界的には、こちらのほうがずっと多いだろう)、子供たちの何割かは、早くも先の見えない大変な人生を歩み始めているということになる。たまたま今は自分の周囲に小中学生がいないのだが、現状はどうなのだろう。


 こういう金持ちと貧乏人の階級は差が開くばかりだと、マルクスは考えた。彼の用語では資本家(株主とかオーナー社長とかホールディング・カンパニーとか)は放っておくと益々栄え、労働者は「疎外」されていく。単独では勝負にならないので、団結せよと彼は主張した。

 共産主義革命を目指すか否かは別として、マルクスのこの思想は、あらゆる場所で常に復活する可能性を持っている。浦川君は実践したし、コペル君は乗り遅れたが、最後に自省して「役立つような人間になりたい」と気持ちを切り替えた。いま流行りの「自分らしく生きる」とは正反対の方向に歩くと決めた。なお、この二人の母親は立派な人たちです。応援支援は、どんな形でもできる。


 この作品は漫画化され、テレビで取り上げられて売れたそうだが(おかげさまで私の耳にも届いた)、どう読まれているのだろう。共産主義なんて言い出す輩がいるのだから、極めて現代的な問題とつながりがあるのかもしれない。

 繰り返すと、この本が出版されたのは1937年という日中戦争が始まったときで、太平洋戦争中はそれこそ「生産関係」などが検閲で引っかかったのだろう、発行取りやめの処分になった。今と同じく、世間の風が冷たく、キナ臭くなりつつあるころだ。


 コペル君たちは15歳。徴兵検査の対象になる20歳を迎えるのは、作者が意図したものではないが、1942年のミッドウェーとガダルカナルの年にあたる。彼らは、ごっそり戦争に持っていかれる年代になってしまう。「二十四の瞳」と同世代だ。

 コペル君は雪の日に悲惨な体験をするが、終盤、春を告げる黄色い水仙が咲く。漫画を読んでいないので、そういう情緒的なところも描かれているのかどうか知らないが、日々の暮らしや季節感はこの作品が身近に感じられるようにという作者の工夫があると思う。整理がつかないまま拙文はこれで終わりますが、これはこれで、あれこれ考えたせいでもある。




(おわり)




秋も深まりました  (2017年11月3日撮影)








 今宵は わたくしと 一緒に踊りましょう
 今もそんな貴女が好きよ 忘れないで

        「負けないで」  ZARD  















































.