この作品が漫画化されるという話を知ったのは、いじめに関する書籍をネットで渉猟していた数か月ほど前に、何かの記事で読んだ。更に追報で、宮崎駿監督が最後のアニメーション映画の題材にすると聞いた。楽しみではないか。娯楽は待つのも楽しい。
私はまだその漫画を読んでおらず、手元にあるのは岩波文庫の古い本。奥付に1982年11月16日発行とあるから、私が高校三年生のときだ。懐かしいのは文庫本の各ページの上が切りそろえてなくギザギザで、バーコードもないし、まだ消費税という言葉すらないから、価格のあとに(税別)という尾ひれも付いてない。
ここで散々、読書好きだの活字中毒だったなどと書いておきながら、私はこの本の存在も、著者の吉野源三郎の名も知らなかった。忘れたのではないはずで、本当に聞いたことが無かった。まあ過ぎたことだ。いつまでも楽しみの種は尽きない。有難いことです。
先ほど1982年発行と書き写したが、これは正確には文庫化の年で、初版(原作の単行本)は、1935年に山本有三が企画し、1937年に吉野源三郎が書き上げた。吉野さんは文学者ではなく哲学者であり、この本は山本さんと相談しながら書いたとご本人があとがきにあたる「作品について」で書いてみえる。
本稿は一回では書き切れそうもないので、何回かに分ける予定です。また、いつものように当方の感想文は、筋の細部に触れますので、これから読みたいというお方は、ここで止めてください。もっとも、平凡なSFやミステリーと異なり、筋を知ったとて興を削がれるような作品ではない。
作者があとがきで触れているように、上記の1935年は満州事変の年、1937年は盧溝橋事件の年。作者いわく「少年少女の読み物でも、ムッソリーニやヒットラーが英雄として賛美され、軍国主義がときを得顔に大手を振るっていた」時代だ。すでに治安維持法は1925年に施行されている。歴史は繰り返す。
内容や表現からして、そんな時代に出版した度胸もたいしたもので、それでも版を重ねるほど読まれた由。しかし、太平洋戦争中は刊行すらできなかった。戦後に復活したが、二回にわたり著者自身の手で、旧い言葉遣いの手直しや、次回以降に回しますが、繊細な部分の削除も行われている。
ポプラ社の単行本はこの編集後のもので、一方、私の手元にある岩波文庫が初版のままのもの。文庫化の1982年というタイミングは、その前年に著者が亡くなり、どうやら解説を書いている丸山真男が、岩波相手に折衝した結果であるらしいが、初版に戻している。
おかげで、私には懐かしい言葉や、子供だったころ周囲の大人たちが使っていた言い回しが、たくさん出てくる。例えば、「学校ができる」とか、女中とか小僧とか(ちなみに、いずれも正規の職務名である)。一つだけ分からなかったのは「省線電車」であるが、幸いネットの辞書に載っていた。国電のことであるが、これすら若い世代には通じないだろうな。
主人公のあだ名が「コペル君」であると記事で読み、これはきっと「デイヴィド・コパフィールド」から採ったに違いないと即断しました。ディケンズの本は「クリスマス・キャロル」しか読んでいないが、デイヴィド少年の成長物語であると聞いていたので、こちらも早速、「日本の古本屋」で買った。しかし、この予言は大外れであった。
先ほどは、いじめの本探しで見つけたと書いたのだが、本作はいじめの防止方法や解決策を示すのが主題ではなく、コペル君が「どう生きるか」を深刻に考え行動に移すに至るきっかけとして、上級生が集団で下級生に暴言暴行をはたらくという古典的ないじめが出てくる。
どう生きるべきなのかを具体的に説教した本でもない。煎じ詰めて言えば刺激剤であり、応援歌である。これを読んで爽快感を得たまま終わり、では余りに勿体ない。感想文が説教くさくならないうちに、次回につづく。
(つづく)
秋の雲 (2017年11月1日撮影)
戦い続ける人の心を
誰もが分かっているなら
戦い続ける人の心は
あんなには燃えないだろう
「イメージの詩」 よしだたくろう
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