ジョン・レノンの生没年は、私の生まれ年と20年ずつ違うので覚えやすい。彼は1940年に生まれ、1980年にこの世を去った。私はその中間点の1960年生まれ。中学生になってビートルズを聴き始めたころ、彼らはすでに解散してソロ活動に移っていた。
あのころのジョンは口を開くと平和平和で、正直申し上げると「芸がないな」と思っておりました。しかし彼の平和維持活動は年季が入っていて、「Give Peace a Chance」を発表したのは1969年の夏。平和と音楽の祭典、ウッドストック・フェスティバルの前だ。
あのころ米英はベトナム戦争の時代だったのだ。戦争は、今の日本の政財界が狙っているようにも見えるが、軍備の段階では金儲けになる。演習という名で武器弾薬を、予算の限り消費するから、内需喚起の努力も不要です。
しかし、いったん戦争が始まり長引くと、今度は金がかかる。請求書は国庫だけでなく、民間にも来る。ともあれ以下は推測に過ぎないが、当時のアメリカが金本位制を維持できなくなったのは、一因として植民地にすらできないベトナムで戦争なんか続けたからだろう。
火の粉のとばっちりは対岸の日本にも飛んで来て、変動相場制から離脱せざるを得なくなった。その日付は「20世紀少年」に出てくる。コイズミがヴァーチャル・アトラクションで立ち読みした新聞の一面トップの記事がそれだ(この件は以前にも話題にした覚えがある)。
なお、「ともだちの嘘」のせいで、年号が一年ずれているのでご注意を。本当は1970年、だから私は10歳になる年。分かりやすい。しかし何にせよ、今だに「平和を我らに」の歌詞が聞き取れない。ジョンのアイリッシュ訛りも分かり辛い。
何回か前に、アイリッシュやスコティッシュはケルトの多神教の影響があるはずだと、根拠もなく書いた。ただ、イングランドとは違う土地柄であることは間違いない。北アイルランドの独立運動は歴史があるし、さらに先年は、スコットランドまで独立可否の住民投票をやったから驚いた。
日本人には、こういうややこしさが、なかなか体感できない。大英帝国はブリティッシュ・エンパイアなのに、相変わらず「イギリス」だもんね。
ジョン・レノンにも、J.D.サリンジャーにも、そのサリンジャーを小説「シューレス・ジョー」に登場させたW.P.キンセラにも、それを映画化したケビン・コスナーにも、アイリッシュやスコティッシュの血が流れている。ジョンはアイリッシュであることに誇りを持っている。そうでなければキリスト教に、あんな態度は取れまい。
先日、「アンダーグラウンド」を話題に出したので、何となく読みたくなり村上春樹訳「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を引っ張り出してきて衝動読みしました。このサリンジャーの小説は、ジョン・レノンを射殺する前に、マンハッタンの寒空の下、チャップマンが読んでいたらしい。理解不能。
「ライ麦畑でつかまえて」は、表紙の半分が青い訳本のころからの付き合いで、何度も読んだのに小説の題名の由来を読み飛ばしてきた。村上さんの訳によれば、「誰かさんが誰かさんをライ麦畑でつかまえたら」という唄の歌詞からきている。
作詞はスコットランドの国民詩人、ロバート・バーンズだという情報も載っております。ホールデンとフィービーの兄妹が、知ったかぶりの言い争いをしている場面に出てくる。二人は仲が良い。
ホールデンはこのあと、精神のバランスを崩すのだが、仮にフィービーがいなかったら、そのまま計画どおりヒッチ・ハイクに出てしまい、相変わらず何処へ行っても馴染めず、犯罪者か行き倒れになっていたかもしれない。小説はどうやら8月で終わる。今日は御巣鷹の日。合掌。
(おわり)
夕空晴れて秋風吹く − スコットランド民謡
(2017年8月9日撮影)
見ている君らにゃ 分からない
こんなにこんなに ほんとに楽しい麦畑
「誰かさんと誰かさん」 ザ・ドリフターズ 1970年
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