おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

静岡連隊物語  (第1104回)

 今回のタイトルは、新書の本の題名です。静岡新聞社編「静岡連隊物語 − 柳田芙美緒が書き残した戦争」。前回触れた別のブログのURLです。ご参考まで。
http://ameblo.jp/tinianisland/entry-12277822290.html

 柳田さん(故人)は、静岡県焼津市のご出身で、私の伯父の先輩にあたる陸軍軍人。同じ歩兵第34連隊に所属したが、最初の兵役を終えてからも、今でいう従軍カメラマンとして、軍属のお勤めを果たし続けた。


 ご家族や新聞社が指摘しているように、文章も上手く、行動力があった。故郷静岡の戦史を語るには、欠かせない人物です。この本は中短編集で、その中に「帰還前後」という短編がある。ただし全文が話し言葉なので、随筆や記事ではなく、講演録だと思う。

 日付が入っていないのだが、戦後二十五年というような趣旨の表現があるので、1970年前後のものか。他の文章も60年代後半がほとんど。70年ごろといえば、米国はベトナム戦争ウッドストック戦争と平和、愛と音楽の時代。日本は大阪万博で、人類の進歩と調和。


 帰還前後の「帰還」とは、軍属のカメラマンとして静岡230連隊と共に、シンガポールやジャワを転戦した著者が、個別の要件で先に静岡に帰還したときのこと。この連隊は間もなく、ガダルカナル島に送られ、しかも兵力逐次投入の終盤だったため、病死・餓死が続出し壊滅状態になった。

 地元に届く相次ぐ訃報に、居ても立ってもいられない柳田さんは、名古屋の師団や静岡の連隊に、軍属復帰を交渉し続けるが、大混乱の中、らちが明かない。そんな或る日の朝、空襲警報が鳴り、彼はさっそく二階の物干し台に上がった。

 普通は地面の下にもぐるための警報である。ものすごく危ない行動なのだが、戦場を知るジャーナリストの条件反射なのだろうか。このとき柳田さんが使った双眼鏡は「ツアイス」とある。ドイツ製で東郷平八郎司令長官もご愛用の高性能。


 柳田さんは、静岡の朝の上空に三機のB29を見た。これだけでも、私が前回引用した6月19日〜20日静岡大空襲とは、時間帯も敵軍の規模も異なります。柳田さんは日付を記録していないが、出来事の内容からして、1944年5月29日の横浜大空襲の日だったようです。別動隊か、帰投途上だったのか。

 このとき、柳田さんは日本の「特攻機」が、このB29三機のうちの一機に体当たりし、もろとも北の山岳方面に墜落したのを見た。さらに、憲兵隊から連絡があり、現地調査を始めるから写真撮影に協力せよとの命令が出たため、大井川の上流まで同行している。


 日本兵二名は戦死(二人乗りの複座式戦闘機だったらしい)。B29のアメリカ兵もほとんど墜落で死亡しており、ただし2名が生き延びて山中に逃げ、住民の山狩りに遭って捕まった。目隠し用の布さえ見つからなくて困ったというから戦況も末期的です。そして、米兵二名は名古屋の軍管区司令部に送られた。

 名古屋は当初、軍事工場も多かったため、繰り返す空襲は凄惨を極めた。ジブリのアニメ映画「風立ちぬ」の主人公「二郎」も、学校を出て最初の勤務先は、名古屋にある飛行機部品工場でした。名古屋城が焼け落ち、無数の民間人が無差別に殺された。


 名古屋には東海地方の軍事および行政の地域拠点である「東海軍」、すなわち第十三方面軍司令部・東海軍管区司令部がありました。このため、上記のように周辺の県から送られた者も含め、数十名のB29降下兵(撃墜され、パラシュートで降りてきたアメリカ兵)が集められてきた。ただで済む話ではない。

 前回から続く話の主人公は、この東海軍の最高責任者として終戦を迎えた司令官、岡田資中将。柳田さんに教わった名前です。「資」は、「たすく」と読む。「資する」という言葉は援けるとか役に立つという意味ですが、文字どおり若い人たちの命を救った。また長くなったので、この本の続きは次回とします。




(おわり)




見上げれば初夏の空  (2017年6月12日撮影)







 高いあの窓で あの娘は死ぬ前も 空を見ていたの 

         「ひこうき雲」  荒井由実











































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