おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

卒業式のシーズン  (第1089回)

 今年の東京は、3月だというのに厳しい寒さに(私にとっては)見舞われております。風邪を引きました。それでも、拙宅の梅も花をつけたし、もうすぐ春が来るはずです。穏やかな春になりますように。



 写真は今年(2017年)の1月にマリアナ諸島テニアンで撮影したもの。テニアン島の空港のそばにある。アメリカ軍が設置した空軍の記念の置き物で、当時の大砲その他の機械類などが置いてある。

 説明版には、B29の絵が描いてある。文中には完璧な輸送を行った云々という自慢話が書いてあるのだが、テニアン基地から飛び立った爆撃機群が、日本の各地を空襲し、原爆を落としたことには全く触れていない。


 この碑には、上のほうに「Roger M. Ramey」という爆撃隊の司令官の名前が出てくる。レイミーは後年、昔この地で行われた原爆実験の後遺症か、ニュー・メキシコ(ケロヨン親子も行きました)に落下した粗忽な宇宙人の、空飛ぶ円盤墜落事件の騒動に巻き込まれている。

 また、下のほうに出てくる「Curtis E. LeMay」は、名前が似ているそのレイミーの前任者だった。一般に、日本ではカーティス・ルメイと表記する。戦後、日本政府が叙勲したため懸命にこの男を擁護しようとしているサイトがあるが、ともに地獄の業火で焼かれたくなければ控えたほうがいい。


 もう十年以上も前になるか、確か週刊文春高島俊男さんの「お言葉ですが…」で読んだエピソードだったと思う。1945年の3月、疎開している子供や親御さんたちは、卒業式や終業式のため、いったん東京に戻るかどうか悩んだらしい。空襲が酷くなり始めていたからだ。

 小学校六年生にとっては、初めての卒業式だ。だから、学年でいうと特に6年生は、意を決して東京に一時の帰省をした子が多かったそうだ。そして、3月10日から11日の夜にかけての大空襲で、大勢が犠牲になった。


 2011年、同じ季節に、多くの子供たちも巻き込んだ惨禍が起きたのは、私たちの記憶に新しい。報道によれば、信じがたいことだが福島から離れている子供が、故郷遠く離れた地で、残酷なイジメに遭っているらしい。誰が吹き込んだのか。親の顔を見たくない。

 幼稚園や小学校のころ、ほんのちょこっとイジメられた記憶を、未だに幾つも抱えている私である。こういう心の傷は、たぶん消えないのだ。もっとも、私の場合は、イジメるほうにも回っているので、自業自得なのだが。

 でも、これは理不尽な仕打ちなのだから、それに原発の事故は自ら為した非道ではないのだから、いつかどこかで乗り越えていく道が見つかると思う。それくらいしか言えないが、この先も大変だと思うけれど、頑張ってな。




(おわり)




テニアンの海中にて  (2017年1月13日撮影)






 ああ 小魚たちの群れ きらきらと
 海の中の国境を 越えて行く

 光っているのは 傷ついて
 はがれかけた鱗が ゆれるから

   「ファイト!」  中島みゆき






















































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