おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ハロウィンは死者と子供のための儀式である  (第1063回)

 渋谷に集まって仮装行列をする日ではない。かくいう私も、幼少のころよりクリスマスは、年に一度ケーキを食べられる日という認識しかなかったので、他人のことはどうこう言えない。

 それにしても、1980年代にアメリカに滞在していたころ、ハロウィンは在留外国人にとって、何の関係もない日だった。どうやら今世紀に入る前後に、欧米でも変質したらしいのだ。


 前回ご登場願ったバーナード・ショーは、アイルランド人である。彼が創始した「アイリッシュ・タイムズ」という新聞が今もあり、ウェブ・サイトもできている。その今月1日の記事に、「When did Halloween move from terror to titillation?」というものがある。

 いったい、いつから恐怖が悦楽に変わったかというと、「1997年から2004年の間のどこか」だそうだ。それはともかく、同記事によると、もう日本でも良く知られていると思うが、ハロウィンは公式には死者を祭る式典で、つまりお盆みたいなもの。コスチュームが全般におどろおどろしいのは、大人がみんな「死んだふり」をしているからだ。

 
 他方で、実際には子供たちにとって、クリスマスに対するイヴのようなもので、例の「trick or treat」で戸別訪問し、お年玉の集金にいそしむ。

 一説には、3千年も前からケルト民族が、一地方で行っていた祭祀であったという。このケルトの主たる定住先の一つが、アイルランドだった。ところが、19世紀の半ばに飢饉が欧州を襲い、食い詰めたアイルランド人らが、大西洋の向こうに開店したアメリカ合衆国に移民した。


 特に、1948年は大混乱の年だったようで、まず例によってフランスが革命騒ぎを起こし、オーストリアに伝播してメッテルニヒが失脚した。アメリカに渡った冒険者たちは、翌1949年にフットボール・チームでお馴染みの「49ers」となってゴールド・ラッシュを起こし、この余波で以前、話題にしたイシの種族らも滅びた。

 民族の大移動は、移住した方か、先住民のどちらかが、力関係に応じて酷い目に遭う。アメリカは、アングロサクソンまで移住者が好き勝手にできて、その後は早い者勝ち。アイルランド人も、ユダヤ人も苦労した。きっと今も苦労している。ボブ・ディランユダヤ系、ジョン・レノンアイルランド系。


 上記の米国滞在中、ニューヨークに一人旅したとき、疲れて一休みすることにした。ちょうど大きな教会があって、座り心地の良さそうな階段まで用意されていたので、そこに腰を下ろして疲れを癒し、ついでに建物の中まで勝手に歩き回ってきた。後に知ったが、アイリッシュアメリカ人の心のふるさと、セント・パトリック大聖堂である。お世話になりました。

 拙宅の蔵書「聖パトリック祭りの夜」(鶴岡真由美さん著)によると、私の印象ではケネディ兄弟とかグレース・ケリーとか何かと恵まれた方々(しかし、亡くなり方が何とも)が多い感じのアイルランドアメリカ人だが、「学歴がなく、腕っぷしばかりが強いから、就ける職業といえば建築作業者か警官が通り相場だった」とのことである。


 この文中の「警官」には、デンゼル・ワシントンの「悪魔を憐れむ歌」で話題にしたように、「コップ」というルビが振ってある。なるほど。「ダイ・ハード」シリーズのジョン・マクレイン刑事も、「ダーティー・ハリー」のキャラハン刑事も、アイルランド系の設定である。

 クリント・イーストウッドは「ミリオン・ダラー・ベイビー」のときにも言及したと思うが、本人にもアイルランドの血が流れており、この映画ではボクシングの入場場面にバグ・パイプを使っていたし、「ミスティック・リバー」に出てきた酒場には、シャムロック(クローバー)の大きなネオン・サインが輝いていた。


 ボブ・ディランの自伝には、私が気付いた限り、二人のアイリッシュ系が出てくる。もっとも、一人は故人でダブリン生まれのジェイムス・ジョイス。ディランは若いころ、縁あって「ユリシーズ」の初版本を贈られて読んだが、「全く内容を理解できず」、「ジェイムス・ジョイスは、史上最高の傲慢な男に思え」たと書いている。いや、会えば話が合うんじゃないか。

 ジョイスは余りに難解すぎたか、ついにノーベル文学賞をもらえなかった。そのジョイスが「何を言ってるのか私にはまったくわからなかった」と憤慨しているディランが同賞に輝くとは、歴史の皮肉と言うか、分からなさにも、いろいろあるのか私にはまったくわからない。


 我が家の世界地図には、ダブリンから対岸のリバプールまで、主要航路を示すなだらかな曲線が引いてある。ジョン・レノンの親父さんは船乗りだった。家族を捨てた。ジョンは母を交通事故で失っている。

 ディランが同居していた祖母を慕っていた話は、前にも触れたような気がする。このお祖母さんは孫のロバートに、「人はみな、それぞれつらい戦いをしているのだから、親切にしなくてはならない」と教えてくれたとディランの自伝にある。

 この祖母の教えと、記録映画「No Direction Home」でボブ・ディランが語っている「苦しんでいる側に立つ者が、政治的人間とは限らない」という彼のセリフ(英語は忘れた)が、私にとって、ディランが何を言っているのか分からないときに思い出す一種の手がかりになっている。


 さて、彼の自伝に出てくるもう一人のアイリッシュは、「大地が震えるくらいの大声を出せる」U2のボノで、ある日、ギネスのビールを一ケース抱えて、ディラン家の夕食にやってきた。ボノは「人を動揺させるようなことを言う男」であり、「もしボノが二十世紀はじめにアメリカにわたってきていたなら、きっと警官になっていただろう」と書いている。

 この日、レコードが上手く作れないと言ったディランに、ボノはU2が「ヨシュア・ツリー」のプロデュースを任せたダニエル・ラノワの名を伝えている。ディランとラノワたちがアルバム「オー・マーシー」を創り上げたニュー・オーリンズの街角で、ディランはデンゼル・ワシントンの「刑事クイン」を観た。


 どういう観察眼を持っているのかしらないが、ボブ・ディランは、ニュー・オーリンズの街が特に好きだったと書いており、その理由の一つ「最高のラジオ局がある町」というのは、さすがジャスの本場であるが、別の理由として、墓地が目に付くからだという。その冷え冷えとした場所は、ニュー・オーリンズでも、もっともすてきなところであるらしい。

 「罪を犯して死に、いま墓の中で生きる女と男の幽霊たち。ここでは過去は早々に終わらない。人は長いあいだ死んでいられる。幽霊たちは光に向かって競走する。どこかへ到達しようとする魂たちの激しい息づかいが聞こえてきそうだ」。

 やっぱり分からん。どうも、欧米の死者は大人しく死んでいないらしい。”Irish Times”によれば、10月31日は「Hallow's Eve」。まだ、ハロウィンは始まっていないのでご注意を。







(おわり)







 そして今 戦いが始まった 大勢死んだ 
 教えてくれ 誰が勝ったというのだ
 塹壕が穿たれたのは 俺たちの心の中
 母と子 兄と弟 姉と妹 引き裂かれたまま

 日曜日 血の日曜日
 日曜日 血の日曜日

 いつまで いったい いつまで
 この歌を 俺たちは 歌わないといけないのか
 いったい いつまで...

        ”Sunday Bloody Sunday” U2









朝露の秋草  (2016年9月23日撮影)
































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