おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

さんふらんしすこ  (第973回)

 歳もとったし健康も害することが多くなって、だんだん昔の話を書き留めることが多くなって参りました。記憶では、サンフランシスコには1989年から91年の約2年間、日本企業の駐在員として働いていた。それまでロスアンゼルスにいたのだが、異例の外国内での転勤になった。当時の日本企業は、或る種のスキャンダルを引き起こすと、「とばされる」のであった。

 ベイエリアを見下ろすサンフランのオフィスにいた当時の担当業務の一つが、その当時、末期を迎えつつあったバブル景気時代の日本国から、わざわざアメリカの不動産や企業を買いに来るお金持ちに、現地の物件をあっせんするというヤクザなお仕事で、でも全く成果が上がらなかった。ひとえに能力不足のせいです。


 なぜかSF市内の物件はむしろ少なく、日帰り出張が必要な州都サクラメントや、州南部のお馴染みシリコン・バレーの不動産が多かった。後者の場合、ほとんどが今や日本の関連業界では略語が定着したらしい「R&D」(研究開発施設)の建築物である。当時の半導体シリコンを冷却するのには大量の水が必要であり、砂漠の都会LAでは無理な産業だった。

 それにしても林立するR&Dは、これがまた単なる立方体で飾り気のない建物がそろっており、その頃まだ固有の業態名がなかったはずの「IT業界」に当時も今も興味が無い私には、正直なところ実に退屈な場所だった。そのころは、まだシリコンバレーにグーグルもヤフーもフェイスブックも無かった。

 ただし、オフィスで使っていたコンピュータのメーカー、ヒューレット・パッカードは当地にあった覚えがある。秋葉原も淀橋も家電商店街の域を出ておらず、コンピュータ屋といえば、まずIBMであった。ハードウェアの時代だったのだ。HAL。

 
 私のITとの格闘人生は、SFにおいて、このHPの端末と、その一台に搭載されていた一太郎に振り回されるところから始まった。せっかく慣れたと思ったころ、やがて帰国した日本では間もなく会社都合でアップルのマックライトIIに変わり、さらにWindowsに入れ替わった。これ以上、替わられてはたまらないので独立開業した(嘘です)。

 シリコン・バレーよりも、近くにあるスタンフォード大学のキャンパスのほうが好きで、ときどき休みの日に一人でドライブに行ったものだ。気に入っていた理由は二つあって、本当にドライブが楽しめるほど広くて緑豊かな美しいキャンパスであることと、その中に商店街まであって、買い物から食事まで学生でもないのに自由に使えた。さすが文系ではアメリカ屈指の大学である。

 
 こうして私がこのあたりをウロウロしていたのとちょうど同じ時期に、シリコン・バレーでスティーブ・ジョブズが働いていたはずである。私の5歳年上。どこかで擦れ違ったかもしれないが、アメリカは雑多な人種の集まりで、特にカリフォルニアは動物園のごとく各種取り揃えているので、お互い気にもしなかったろう。ジョブズの生みの父は、いま大変な紛争の渦中にあるシリアの人。

 だから、今は亡きスティーブの古い写真などみると、イエス使徒らも、こんな風貌だったのだろうかと勝手に思ったりする。さて、大学中退の彼が、スタンフォード大学の卒業式で「初めて大学の卒業式に出ております」と切り出したスピーチの中で、当時も今もアップルが誇るグラフィックスの出来栄えは、若いころ感銘を受けた「カリグラフィ」のおかげだと述べている。アジア風に言うと「書」。


 シリアも含めアラブの国々は、あんなに広域なのに同じ言語を用いているそうで、方言もせいぜい出身地の見当がつくくらいの差異しかないらしい。今の時代、イスラム国家にまつわる物事を評価するのも多少の勇気が要るが、右から左に書くというアラビア語のカリグラフィーも、どうしてなかなか絢爛たるものだ。ジョブズさんもご先祖伝来の血が騒いだかな。

 彼の人生は文字どおり波乱万丈だが、ここでは改めて触れない。ほかにも奇遇だなあと思うのは、彼がごく若いころヒューレット・パッカードのお世話になっていることとか、後年私がアニメ映画「トイ・ストーリー」を映画館で観ていることなど、細かいことを挙げればきりがないくらいある。

 今の私のIT環境は、ジョブズが主張するとおり(ビル・ゲイツが黙っているとおり)、マックをコピーしたウィンドウズばかりだが、iPad だけは敬意をこめて、替えるつもりは無い。去年PCを買い換えたとき、店員さんから多少の説得があったのだが、職人の子孫としては譲れないものがある。商売道具には、愛着も欠かせないのだ。幸い相手は話の分かる青年なのであった。


 上記のスピーチでジョブズは、同じスタンフォード大学の卒業生であるスチュアート・ブランドというお方が、ローリング・ストーン誌創刊の翌年、1968年から発行を始めた「ホウル・アース・カタログ」という雑誌に言及している。

 このベトナム戦争と宇宙開発と、機械化の社会経済のど真ん中の世相にあって、さすが(当時の)アメリカだと思うのは、この雑誌がNASAの古いプロジェクト構想の一つだったという地球全体(Whole Earth)の映像をとらえるという発想から得た名を冠しながら、すでにエコロジーDIYをメイン・テーマに据えた道具の商品カタログであったらしい。時代の正反対かつ遥か先を歩んでいる。


 その話の締めくくりに、ジョブズは一時は死を覚悟したらしい自らの闘病経験に触れ、その後は毎朝、鏡を見て自らに問いかけるのだと卒業生たちに伝え残している。今日やろうとしていうことは、もし人生最後の日だとしたら、それに値するものなのか。どうやら違うという感覚が何日か続いたら出直した方が良いと、彼の助言はとても現実的で分かりやすく実践しやすい。彼の作品群と同じように。

 そのあとで結語に用いた「Stay hungry. Stay foolish.」という、若者へのはなむけの言葉は、どうやら勘違いが多いが、ジョブスのオリジナルではない。本人がそう言っているのだから、間違いない。上記のカタログの最終号の最終ページに、カントリー・ロードの写真が載っており、その下に印刷されていた言葉だそうだ。

 
 先述のカタログ雑誌のテーマを踏まえて考えれば、満足しないこととか、「バカじゃないの」であり続けるということとかは、どうやら初心忘るべからずとか、あくなき探求心を失うべからずといったふうな、今の日本人好みの「前向き志向」的な自己啓発のスローガンでもなさそうだし、彼のいた業界とは趣を異にする心構えであるように、私には思える。

 かといって卒業式は懐古趣味を披露する場でもないし、では、何なのだ。本人は個人的で大したストーリーではないと前置きして、こういった話をしている。彼は自分が作った会社をクビになったという稀有の体験をしたあとで、世話になった先輩に合わせる顔がないと思ったことを語っていたのが印象的で、これは時代を超えて若い人たちに伝えるべき何かだと考えていたに相違ない。

 その答えは人それぞれで違うだろう。さて明朝、鏡に訊いてみるか。鏡よ鏡。世界で一つだけの...





(この稿おわり)




孤高の黒鷺。京都、賀茂川の水辺にて。
(2015年12月28日撮影)












 Sitting here resting my bones.
 And this loneliness won't leave me alone, listen.
 Two thousand miles I roam,
 Just to make this dock my home, now.

   ”The Dock Of The Bay”   Otis Redding
 























































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