おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

北の鉄人  (第971回)

 去年はラグビーを知らない私でも(知っているのはバックパスしか駄目というルールだけ)、ラグビーのことを書いたとて怒られそうもないことが起きた。競技の説明や試合の解説は書きたくても知識がないので、昔話から始めます。

 モンちゃんが就職したのは酒造会社だったから、ラグビー部だった彼の経歴からして、我らの世代が二十代のころ関西の強豪チームの一つだったサントリーがモデルなのだろう。しかし、子供のころからラグビーといえば、なんたって新日鉄釜石だった。


 ラグビーに関するもっとも古い個人的な思い出は高校生のときだ。小学校のとき同級生で町内も同じだった仲良しの友人が、阪神タイガースゴールデン・ハーフ(特にマリア)の大ファンで、いずれ野球選手になるのだと練習熱心であった。彼のご尊父は多分むかし野球をやってみえたはずで、わが町内のソフトボール・チームの監督を務めてみえた。

 この友人は確かに運動神経も体格も良く、ついでに性格も外見も良かったのだが(だからモテたねえ)、一緒に試合に出ていた私からみても分かるほど、なぜか勝負弱かった。肝心な場面で必ずと言っていいほど三振するのである。チームメートが頼りなくて力むのだろう。


 別々の中学校に進んだので、ときどき会う程度の付き合いになり、最後に彼の家に遊びに行ったのは高校生になってからだった。その日に彼が見せてくれたのが、若きラガーマンたる彼の姿を写した数十枚に及ぶ写真だった。

 その半分ぐらいが練習中のもので、もう半分は雨の中で行われたらしい泥だらけの試合の写真だった。彼は野球を断念し、ラグビーに転向したらしい。私は理由を訊けなかった。ところで写真の誰一人、笑顔を見せていない。この真摯な顔つきの高校生たちが、私にとってのラグビーの第一印象になった。


 ずっと前に小欄にも書いたが、二十代半ばで冬の東北に旅行したことがある。このとき、どうしても新日鉄の工場を見たくなり、そのためだけに一日かけて釜石まで往復した。雪はやんでいたが道に積もっており、北国の雪路に慣れていない私は、坂を下る途中で見事にあおむけに滑って転んだ。

 手をつく暇もなかったのが幸いし、背中全面で着地したためケガもなく、ほとんど痛みもなかった。ただ、運悪く近くを女子高生と思しき数名が通りかかり、スズメのように笑いさざめいて去った。


 もちろん大工場の敷地内には入れなかったが、今はもう止まってしまったと聞く高炉が稼働中の時代で、来た甲斐があったと即座に思ったほどの威容であった。技術的なことは分からないのだが、釜石は日本最古の近代的な製鉄所が創始された地であるらしい。北の国に一流の鉄の職人がいたのだな。

 釜石の名は、司馬遼太郎坂の上の雲」の「旅順」という章に出てくる。「これが純国産化されたのは、グレゴリーニ銑鉄をやめて、釜石銑鉄に切り替えて製造完成された明治二十八年である。」と書いてある。文頭の「これ」とは、二十八サンチ榴弾砲


 以下、話はあちこちに跳ぶ。これまで何度か故郷の静岡のことを、如何にも冴えない土地のように書いてきたが、これは謙遜も存分に含まれている。特に浜松や磐田のある県の西側は私が幼いころからずっと、日本でも屈指の工業地帯である。

 特に楽器と二輪車は今なお凄いの何の。私はオルガンで挫折したが、どこにいってもピアノには「YAMAHA」と書いてある。売り上げで世界一のヤマハ、当時の社名はまだ日本楽器だった。同じヤマハの商号が、なぜかバイクにも使われていたのが子供心に不思議だった。今は別会社になっているが親戚筋である。


 若き日の松下幸之助は同僚たちと酒を飲みながら、何時の日かヤマハを超える大会社にしてやると気勢を挙げていたらしい。その意気や良し。磐田生まれの本田宗一郎は、自動車部品の製造会社をトヨタに売っぱらって浜松でバイクの会社を始めた。今は青山にでっかいビルを建てて、本社が東京に移転してしまっているが、バイクの販売数ではHONDAが世界一。二位がヤマハ発動機なのだ。

 かくのごとく、静岡はお茶とミカンだけだと思っていてはいけない。ヤマハの場合、現在、楽器は浜松、発動機は磐田にある。釜石と浜松はこういう土地柄とあって、艦砲射撃で甚大な被害を受けた。無差別殺人である。自爆無しテロと呼ぼうか。



 私が青少年だったころのヤマハの主力商品は、「乗ってる乗ってる...」というリフのテレビCMでおなじみだったヤマハ・メイト。キャッチ・コピーは時代をもろに反映していて「安上り」。このノリの軽さが幸いして、ヤマハは企業スポーツに積極的な出資をしている。

 片山右京ヤマハのエンジンに乗ってF1を走った。サッカーではJリーグ創設時にジュビロを作り、地元出身のゴン中山が、サッカーのワールドカップで日本の初得点を挙げている。そして、話題はようやくラグビーに戻って五郎丸。

 フルバックという言葉の響きが好きで、確かサッカーで覚えたはずなのだが、今ではディフェンダーとしか言わないだろう。でもラグビーでは健在で、しかもこの競技の解説文などを読むと、これは超人でなければとても務まらないのではないかと思われる肝心要のポジションである。去年脚光を浴びた日本代表のFBが誰か言うまでもあるまい。聡明な青年である。



 もう十年余り前になるが、海外出張で南アフリカ共和国に行った。ヨハネスブルグに滞在し、日曜日だけ空いたので当時まだご存命だったネルソン・マンデラさんの育った家を見学に行った話はすでに書いた。

 27年間の不当なお勤めのあと、シャバに戻ったマンデラ師は大統領になった。アパルトヘイトは現在日本が引き継いでいるが、当時の南アはまだその余韻が強く残っており、新大統領は旧支配者階級の白人らと、現地の黒人たちとの宥和に体を張った。その一つが植民地にイギリスが持参したラグビーである。


 映画「インヴィクタス」は、監督がクリント・イーストウッドで、南の鉄人マンデラ大統領を演じる主役がモーガン・フリーマンと聞けば、観る前から楽しい。そして、体育会系の私にとって、キャプテンという言葉は神聖おかすべからざるものである。

 虹の国サウス・アフリカ代表チームのキャプテンを務める役のマット・デイモンは、子供らにラグビーを教える場面で、「大丈夫だ。ルールは一つだけ。前にパスしてはいけない」と笑顔で語る。ほらね。1995年、初の自国開催となったワールドカップで、彼らのチームは決勝戦に進出する。


 2年前の5月、岩手に行った。年に一度、東日本大震災の被災地を歩くのだ。このときは本当に歩いてしまい、ヘトヘトになったのだが、釜石市内に向かう途中の道路に、「2019年のワールドカップを釜石で」と書かれた小旗が、至る所で翻めいていたのを覚えている。

 幸いこの願いは天に届いたが、聞くところによると、元々巨大都市ではないうえに高炉の運転停止、震災の被害と続いて、どうやら資金面で苦労してなさるとの噂を聞いた。次の年に東京オリンピック2世を計画しているが、政府は偏りがないようにしてもらいたい。私が偏っているかもしれないが。


 同点策を採らず、スクラムを組んで逆転したあの試合、録画を観るとさすがは地元イングランド、客の大半が途中から日本の応援に回っているのが歓声で分かる。なんせ高校の名前をスポーツ名にしてしまった過去を持つ本場なのだ。

 一方で日本国内がこうまで盛り上がった最大の理由は、相手が過去二回の優勝経験を持つ南アフリカだったからだろう。これでかつて、国際大会で三ケタの失点で大敗した屈辱を果たしてくれましたと先輩ラガーメンはどこまでも謙虚だ。


 2019年に向けて日本代表は研究されるだろうし、特に南アにとってはマンデラ大統領の遺志、建国の競技である。1995年の大会において決勝戦で不覚を取ったニュージーランドは、二十年後の2015年、同じ相手チームを準決勝で下し、優勝している。

 強力なライバルを持つチームや選手は手ごわい。2019年の南アフリカは恐ろしく強くなって登場してくるはずだ。もう一度観たい。今度は録画ではなくて、目の前でこの試合は観たい。




(この稿おわり)




2014年5月11日、三陸海岸にて撮影。








 私は我が魂のキャプテンだ。

 I am the master of my fate.
 I am the captain of my soul.

    ”Invictus”  William Ernest Henley










































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