おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ハンド・イン・ハンド  (第970回)

 今回このタイトルを付けるにあたり、念のためネットで検索してみたら、何とまあ沢山のハンド・イン・ハンドの団体その他があることよ。震災被害の支援基金だそうだが、ユニセフまで名が出てくる。今日はそのハンド・イン・ハンドについて、あまり好意的ではないことを書きますので、関係者やそういう言葉が好きな人はご遠慮ください。

 映画では主人公のケンヂとドンキーのエピソードが、かなり削られている。漫画を観ていない人は、映画に出てくる自転車のおいかけっこと、アポロ11号の月着陸のエピソードくらいで、なぜドンキーが「お前しかいない」と地球を救う難題をケンヂに委託したのか良く分かるまい。そして、それを機にケンヂがようやく重い腰を上げて生活圏内から外に出て調査活動を始めたのかも分かりにくい。


 まあ、これも仕方がないか。一言でいえば両名は少年時代、幾つかの重要な場面において最善を尽くし助け合ってきた。だから、ドンキーにはケンヂに素質がありそうだということを知っていたし、コンビニ経営と育児で走り回っている旧友を見て、これが悪の大魔王ではないことも確信したのだ。惜しむらくは夜の理科室で見たはずのフクベエ少年の素人芸を、どうやら忘れてしまったようなのだ。

 すでにケンヂは、敷島教授の家の壁、同窓会で参加者が描いた絵、ドンキーが生前に寄越した封筒にあった別紙、モンちゃんたちと掘り出したカンカラの中の大きな布など、これらに描かれた目玉と左手のマークを見ている。基地の仲間のおぼろげな記憶では、確かに見覚えのあるロゴなのだが、自分たちの誰かが書いたのかを思い出せる者がいない。結局またユキジとオッチョ頼りになる。


 とにかく人ひとり亡くなり、しかも連絡を取ろうとしてきた昔の仲間が残したダイイング・メッセージの謎を、このまま座して放置しておくわけにいかない。ようやく外勤に出た最初の訪問先は、練馬の団地で、ドンキーの奥様に会うためであった。やつれている。まだ子供が小さいのに、夫が前触れもなく「自殺」とくれば、誰でも途方に暮れるだろう。

 かつて二人で営んできた家庭があった部屋には、アポロ11号の三人の宇宙飛行士の写真、月面着陸船イーグルの小型模型、卒業時のものか生徒たちの寄せ書きと写真(この映画には、妙に寄せ書きの色紙がたくさん出てくる)、そしてかなり高価そうな天体望遠鏡。ケンヂは一人起きてテレビでアポロを応援していたドンキーや、神社の階段で気勢を上げている彼の勇姿を思い起こしている。


 ケンヂは奥様に、今度会おうと言ってきた人間が自ら命を絶つとは思えないと、意外とまともなことを言う。これとそっくり同じことを後に姉が諸星さんのお母さんに語ることになる。奥様は「そういえば」という切り出し方で、最近あった妙な出来事に関し、夫が心配していた様子について語り出した。教え子の田村マサオ君が、変な宗教みたいのに迷い込んだらしい。同窓会と同じような話題であった。

 ドンキー先生も大学生になった卒業生の心配までするとは、その責任感と優しさが裏目に出たということか。ただしケンヂがその衝撃的な事実を突きつけられるのはまだ後のことで、今のところはビールの飲み逃げ以外に実損もないため、まずは秋の晴れた日、お茶の水工科大学に行ってみた。指導教官が不在のため、全体的に学生がのんびりしている。


 雑誌の写真に夢中になっていた学生二人によると(なぜ北関東なまりが流行るのか)、同級生の田村は宗教にはまって大学に来なくなったという。写真のレナちゃんは普通の水着姿で、また顔を手で隠しているため、一見、素人か手堅い(?)グラビア・アイドルのように見える。しかし、ちゃんと職業欄に「ヘルス」と書かれており、よくある話で先生の子供がグレたのだ。彼女の正体の手がかりはオリオン黒子。黒ビールが飲みたくなる名前だが痛風中。

 帰り道、ケンヂはキャンパスの掲示板に並んだ第169回「ともだちコンサート」のポスターを見て驚いた。全面に目玉マークである。これのオリジナルを創作した際、オッチョ少年はこのマークを知っているのは本当の友達だけだと位置づけたのだが、いつの間にか偶像崇拝の対象になっている。開催日は11月2日、あと半月しかない。料金が無闇に高い。


 その田村君は自宅を訪れたケンヂを、雄たけびとアームストロングのセリフで撃退して去ってしまう。その彼が、”ともだち”サークルの最前列で手を挙げて訊いているのが、私たちはどこから来たのですかという、相手が何を訊かれたいか知っている者独特の阿った一見哲学的なことを尋ねる。案の定、先方は「良い質問だね」とご満悦なのであった。

 この壇上の男が喋る言葉は、「私はコリンズ」以外、すべて猿真似という独創性皆無のものであるにも拘わらず、余りに時代遅れであるため、集まった若い人には新鮮であるのかもしれない。秘密基地の中で私たちは手をつなぎましたという。観衆にも同じことを強制した。


 私が十代半ばのころ世に出て来たアリスは、最初のうちフォーク・グループであるかのようだった。嫌いではなかった。それがだんだん歌詞が変になってきた。アコースティック演歌のようになった(元メンバーのその後も変わらない)。念のため、彼らには何の悪意も抱いておりません。

 えてして、急に売れすぎるとこういうことになる。客に振り回されるのだろう。それこそ演歌の歌手なら、プロダクションがあり、マネージャーもついていて、作詞・作曲・編曲はプロが役割分担とチームワークで仕上げる。良く言えばバランスがとれており、下手をするとマンネリになる。


 この点、自作自演のポピュラー音楽界では、サービス精神が過剰になると歯止めがきかず、結果的に時代や集団心理に同調するようになる。そういうバンド、そういう曲が間もなく映画にも登場する。

 世の典型はチャリティー・コンサートとやらであろう。困っている人を助けるという趣旨に異論はないが、他人様からお金を集めて送るという点では、赤い羽根の共同募金と同じである。あれは無名の少年少女がやるから無心で健気な風景になる。

 アリスの場合、我らの世代のファンと共に舞い上がって行きついた先は、「美しき絆 Hand in Hand」であった。眩暈がしそうである。このたびの大災害でおきた大合唱を先取りする言葉遣いには恐れ入る。


 みんなして手をつないでいるサークル仲間を見て、ステージ上の”ともだち”はコリンズ少佐の昔話を持ち出して泣き出し、周囲を驚かせている。周回軌道をグルグルしていては、手をつなぐ儀式にも加われない。小学校時代もそうだったのに、大きくなってせっかく育て上げたサークルだか変な宗教だかの集まりでも、彼一人は誰とも手をつなぐことなく孤独にさいなまれている。

 ケンヂもなかなか立ち上がらない。このあと映画にはユキジと神様、キリコのエピソードが登場してくてくるが、まだコンビニにいる。そのあとで万丈目にからかわれ、羽田で爆発があって、さらにコンビニが炎上し、ようやく行く気になったのが「ともだちコンサート」。地球を救うにあたり、ギター状の武器が必要であることを思い出すことになる。まだまだ当事者の自覚を得るのは先の話だ。






(この稿おわり)





ゆかたのきみは すすきのかんざし  
(2016年1月1日撮影)










 All the lonely people,
 Where do they all come from?

        ”Eleanor Rigby”  The Beatles





























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