おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

18歳になったら  (第962回)

 今日はちょっと真面目である。映画の話題の続きは、少年時代のケンヂの立ち姿が1997年の大人のケンヂに切り替わるところからだ。背中にカンナをおぶっている。この赤子役が、また無性に可愛い。漫画では赤ん坊時代のカンナは、むしろマルオに似ている。

 ケンヂとカンナは血のつながった叔父と姪であり、姓も1997年当時の自宅も同じ。ただし世間には珍しい共通点もある。二人とも幼いころ、生みの親が生きているのに、育ての親にお世話になったことだ。ケンヂはほとんど育ての親キリコから、生みの親に近い程の恩を受けた。お母ちゃんの腹の中にいた時の危機も含めると、4回も命を救われている。

 カンナはおばあちゃんが育てた方が穏当だったと思うのだが、なぜか叔父貴がワーク・ライフ・バランスに目覚めて育児役を買って出た。恩返しだろうか。地球を滅亡から救った遠藤家の三人は、血縁以外にも大事なもので結ばれていたのだ。その副作用がほとんど最後のカンナに出たのは気の毒であった。


 そのカンナの再登場とコイズミの初登場は、二人が高校2年生の年だから17歳になる学年である。カンナは今年の春か夏あたり18歳を迎えているはずだ。ケンヂが半そでだった季節に、「本物のオッパイ」を与えられるべき乳児で、まだ立ち上がるには早いはずだったのだから。

 彼女の両親は2014年の時点で、両方とも行方不明である。しかし、ユキジおばちゃんとオッチョおじさんが時には厳しく叱り、時には身体を張って守ってくれた。のちに映画でもカンナ自身が語っていたように、彼女には立派な育ての親が大勢いたのだ。


 コイズミも担任に反体制的なことを言ったばかりに、生みの親とは疎遠になってしまった。だが、ヨシツネがフォスター・ピアレントになってくれたし、神様がその資質を見抜き、更に磨き上げて世に送り出そうとしている。

 現実は漫画より奇なり。フィクションの展開どおり、実際の日本社会も、家族・親戚・近所との付き合いが廃れ、若者は働き始めても友達のほうが大切という時代になっている。


 民法が改正されて、来年から日本国民の成人年齢が18歳になる。先日、先輩から「なぜだ?」といきなり訊かれて、「国民年金の保険料を早めに払わせたいんじゃないですか」という事実だけで逃げ切った。では逆に何故これまで20歳のまま、私の若いころからあった18歳への変更の議論が長引いたのだろう。世界中の先進国は、ほとんど18歳成人なのに。

 たぶん、こういうことだ。私が若かったころは、若者といえば学生運動が典型で左寄りであった。さすがに最近では記憶にないが、若い人が選挙に行くと革新政党に投票するため、国政の選挙日を三連休の中日に置いたりしていたものだ。遊んでおいで、ということだ。それが近年は、むしろ若いほど保守政党が好きなようにみえる。与党も、そろそろ安心したらしい。ともあれ、私は18歳になって良かったと思っている。


 その理由の殆どは、ごく日常的なものです。まず、大学全入時代と言っても実際に高校卒で就職する人は、まだ半分近くいる。彼らは18歳と19歳の間、労力を提供し、所得税社会保険料を支払っている。少なくとも20才前後の数年間は、総論的に言うと、大学生よりずっと世の中のためになっているのである。その彼らが20歳になるまで選挙権がないというのは余りの横暴である。

 ところが、大新聞のアンケート調査では成人年齢の引き下げに、反対意見のほうが多いらしい。手元に巨人ファンが好きな全国紙の記事がある。いまやすっかり最大政党の御用新聞になった。そのこと自体は悪いことではなく、営利企業が不偏不党である必要はない。むしろ、政府の考えていることを常に分かりやすく報道してくれるなら便利である。ただし、新聞は酷い嘘はつかないとしても、書くべきことを書かないということを、読者は(特に自宅の子供が読むならば)注意しないと情報が偏り、頭の中も傾く。


 さて、その新聞の世論調査のうち今月上旬に、「18歳成人」の賛否を問うた調査の結果が載った。反対53%、賛成43%。念のため再度申し上げるが、もう18歳に決まったあとなのに、このありさまである。面白いのは年代が若いほど反対の割合が大きい。歳の近い後輩に厳しいのだ。よく知っているという事情もあろう。自分たち自身の近況も含めて。

 反対の最大理由が「18歳に引き下げても、大人としての自覚を持つとは思えないから」。これには後ほど反論する。次が「経済的に自立していない人が多いから」。3位が「精神的に未熟だから」。天に向かって唾するとは、このことである。

 自分が親や兄姉や先輩として育て導いてきた層が、無自覚で未熟で経済力がないとしたら、それは育てた方の責任だろう。では、責任を痛感しつつ、このように回答したのだろうか。この世論調査も、結果にコメントしている大学の教授も、そういう肝心な点には触れない。きっと読者が減っては困るのだ。適切な経営判断である。


 仮に大人の自覚もなく、精神的に未熟であったとしても、それで良いのか。20歳になれば充分、改善するのか。仮にその通りであったとしても(今のままでは、そうはならないと思うが)、20歳では遅すぎると判断すべき材料は身辺に山ほどある。最初に申し上げた高卒で働く場合が典型で、大人になっていない人を採用したら、それを任される上司や先輩や人事は大変な苦労をしなければならぬ。職責に親の役割も加わるのだ。

 18歳になれば自動車の運転免許も取れる。20世紀までは中卒・高卒で就職する方が多数派だったのだから、免許は当然この年齢から必要である。男も18歳になれば結婚できる。女は16歳であり、なぜジェンダー好きな人たちがこれに沈黙しているのか不思議だな。運転も結婚も大失敗したら一大事。大人の責任が伴う。

 ともあれ、これは男も18になったら妻子を養えという社会的要請があった時代の名残だろう。生殖能力はとっくにある。しかし思春期のままでは、労働者にも大黒柱にもなれまい。大学生とて借家の契約や、学費のためのアルバイトを大勢がしている。子供はそういうことを、してはいけない。


 子供を大人に育てるのは、まず親の責務であるのは当然だが、振り返ってみれば親だけでは不足だし大変だ。本来はその子の周囲の大人、親類やご近所や学校の先生、場合によっては通りすがりの大人も含め、みんなして寄ってたかって一人前に育てるのが年上の責任だろう。それなのに、マイホームなんぞに目がくらんだ私たち以上の世代は、家族を解散し、お互い見知らぬ者同士が住む土地に引っ越して、学校の授業数を減らした。地縁血縁が壊滅状態になって当然である。

 大人になるということは、家族以外の者で成り立つ共同体の一員になるということだと思う。そうであれば、共同体の協力なくして大人にはなれまい。先日もサッチャーを引き合いに出して書いたが、年齢が若いほど日本人は帰属意識の対象が減り、今やほとんど家族と国家だけになってはいないか。この「いきなり国民」状態は、スポーツの報道の今昔を比べると歴然としている。


 私が小僧だったころ、日本人が楽しんでいたスポーツは、プロ野球、大相撲、甲子園、野球は強くてノンプロや六大学もあり、さらには駅伝に国体、オリンピック以外は全て国内大会であった。少し遅れて、Jリーグが参加したころまで、私たちは地元や母校や特定の選手を応援していたのである。

 それが今や、テレビやネットで中継しているのは、日の丸が上がる可能性のある国際大会ばっかり。極論すれば晴れ舞台で勝つ可能性のある日本代表の試合しか興味がない。サッカーのワールド・カップなんて昔は殆ど誰も見向きもしなかったのに、今では一回勝っただけでラグビーに大騒ぎだし(しかし、あれは凄かった)、オリンピック競技から抜けた途端ソフトボールはマスコミから消えた。

 いまや巨人戦より、名も知らぬフィギュア・スケート大会の番組が優先されている。もはや地元は日本国のみである。日本の球場で活躍する外国人の選手より、イチロー今日は無安打というニュースが先に出る。もう後戻りはするまい。よほどの貧乏国に戻るまで。


 私が初めて、ジョニー・デップウィノナ・ライダーを観たのは、サンフランシスコの映画館で、「エドワード・シザーハンズ」という作品。ジョニー・デップは海賊になるずっと前から一風、変わった人だった。ウィノラ・ライダーは、むしろその後で観た「エイリアン」の何番目かの続編で、みめ麗しいアンドロイドの熱演が印象的であった。その影響で「17歳のカルテ」も借りてきて観た。この映画で初めて観たはずの助演女優もド迫力であった。アンジェリーナ・ジョリー

 多くの精神科医によると世界的に、うつ症状を訴えるのは女が男の倍ぐらいだそうだ。気候風土や民族政体に関わらずというから、生理的な要因が含まれているのは先ず間違いあるまい。特に女性ホルモンの変動期が辛いらしい。古くから更年期障害不定愁訴といえば、更年期障害は男にもあるのに、女性特有のものとされている。最近では、マタニティ・ブルーも同様の機序だろう。そして、「17歳のカルテ」にも取り上げられている思春期。


 世界中の国々で18歳が成人年齢になっているのは、中等教育(高等学校)が終わるからというより、因果関係は逆で、そのころまでは学校教育があったほうが良く、18歳になれば心身の成長も落ち着いて、世の中に安心して送り出せる(はず)だからだろう。繰り返すが、日本人の18歳はまだ大人ではないと言い張る人たちは、世界中に自らの恥をさらしているようなものです。

 先月だったか、高校2年生の女子生徒が、同級生の男子に自らを刺殺させたらしい(現時点では捜査中につき断言は避ける)。この悲しい出来事の前、彼女は口癖のように「18歳になったら死にたい」と語っていたと新聞でみた。その年齢で区切りをつけた理由も、彼女の人柄も全く知らないが、いつか社会に出ていく日が来るという目に見えない巨大な壁が見えていたのかもしれない。実際以上に手ごわそうに感じたのか。それとも、せめて取りあえず、そこまでは生きたいという切実な願いか。


 物語に戻って終わろう。ケンヂに有って、”ともだち”らに無かった(らしい)もの、それは20世紀には煩わしいほどにあった近所づきあいや商店街の寄り合い、チョークを投げる教師、口うるさい親戚、仲人好きのばあちゃん、家族みんなに負担のかかる子育て。これらに翻弄され、また時には助けられて生きて来たということだ。

 彼はそれらの日常を振り切ってバンドに走った。志半ばで戻ってきたら遠藤酒店は斜陽の時代を迎えつつあり、やがてキリコもいなくなって赤ん坊が残り、お母ちゃんもそろそろ良いお歳、元の町人に戻らざるを得なくなったということだ。だが新人類の逆襲に遭うことになる。





(この稿おわり)





ドンキー少年が挑戦した箱根山連峰
(2015年9月22日撮影)






 一年生になったら
 一年生になったら
 ともだち100人
 できるかな?
 100人で笑いたい
 世界中を震わせて...



      「一年生になったら」     唱歌
      
 なお、この歌の作曲者は、東京オリンピックの開会式で、確かオルガンを弾いていた山本直純さん。この開会式の日が後に体育の日になった。おかげで今日まで三連休。







































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(2015年9月22日撮影)