おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

故郷にB29が墜ちた六月  (第939回)

 漫画の感想文らしくない記事が続く。自分で散々書いてきて、今更こういうのも何だけれど疲れて来た。書いたり考えたりするのに疲れたのではない。時勢に遅れを取らぬよう最近の政治の記事をネットや報道で追いかけて来たのだが、ネットのニュースに追記された無数の好戦的で言葉遣いの荒い書き込みを読むのに消耗してきた。だが、そういう意見の記録ばかりが、サーバー・ネットに残っていてよかろうはずがない。

 さて賛否両論の評判を聞き、小林よしのり「新戦争論」を買ってきて、先週24日の夜に読んだ。けっこう意見が合うなあと思ったのは、最初の戦争論を読んだときの、ずいぶん右っぽく変わったなという印象が残っていたからでもある。私にとっての彼の記憶は、まず「東大一直線」である。もっとも後年、オウムに命を狙われたという、とんでもない新聞報道があった。


 とはいえ何もかも同感という訳にはいかない。戦争論を書いた動機は確か御祖父の名誉回復であったと思うが(いま戦争論は実家にあって手元にない)、そのためか小林さんは顕彰という言葉が好きで、作品中に何度も出てくる。だが私は同様に個人的な事情で、顕彰という言葉を好まない。

 他の方々の信仰の自由はもちろん尊重しますが、このブログで何度も手を変え品を変えて書いているように、戦争で死んだ人に対しなすべきは、軍人か民間人かを問わず、顕彰ではなく鎮魂や慰霊であるという考えは今後も変わるまい。この個人的な事情とは、以下述べる幼少時の記憶だからこそ根深い。

 生まれてから高校卒業まで静岡市で育った。両親や祖父母の代は、日曜日になると大きな部屋のある家に集まって、雑談したりトランプで遊んだり昼飯を一緒に食べたりしていたもので、私も毎回、好むと好まざるにかかわらず連行され巻き込まれた。昔の年寄りは愛想が悪かったが、どうやら子供がそばにいること自体は好きだったらしい。その気分が分かる歳になってきました。


 そういう場で年上の親戚に散々聞かされたのが、静岡が空襲されたときの話である。県の資料によると昔の静岡市だけで十数回、後に合併した清水市も併せると26回も空襲に遭っているという。

 父方も母方も実家が空襲で全焼しているが、それが一番被害の大きかった1945年6月の空襲によるものかどうか、お袋に電話で訊いてみた。「そう。6月19日。B29が123機も来た」。これが八十代半ばの老婆の即答である。


 正確には19日から20日にかけての夜、爆撃機B29の数は資料により若干異なるが、百を超えていたのは間違いない。多分これに戦闘機が加わっていたはずである。

 当夜、母は祖母と妹(私の叔母さん)の三人で手を取り合って火の海から抜け出し、はるか清水との境を流れる巴川の土手まで徒歩で逃げ、燃え尽きようとしている静岡の下町を遠望し、橋の下で夜明けを待った。

 なお、同じ静岡県にある工業都市の浜松は軍事工場が多く、空襲だけでなく「かんぽうしゃげき」もあったから、もっと悲惨だったといった話も親戚の会話から学んだ。空襲よりさらに怖いものがあったのだ。


 この敗戦の年の大空襲で、B29が二機、静岡の上空で空中衝突し、墜落した話を聞いたのも覚えている。そして問題はここからだ。県の資料などでは、乗組員の米兵23名が全員死亡と書いてある。ただし、幾つかのサイトや私の記憶によれば、何人かがパラシュートで脱出したはずなのだ。

 この23名の慰霊碑は、私が高校生のころはなかったのだが、今は市街地の北にある賎機山の山道脇に立っている。亡くなった市民、数千人の慰霊はどうなっているのか知らない。知らなかったから正直言って一瞬、不快に思った。

 そのあとで子供のころ聞いた別の話を思い出したのである。生き残った米兵は、焼け出された住民たちが竹槍で突き殺したという話を。これが本当なら、慰霊しないわけにはいくまい。


 竹ヤリの話をお袋に訊いてみたが、米兵云々の件は聞いたことがないという。静岡は温暖なところで、住んでいる人たちの性格も風土そのもの、暢気で穏やかな人が多い。他県の多くの人が帰省することを「充電」と呼んだり、逆に「親戚付き合いで疲れた」などという感想を漏らすが、私は帰省するたびに放電して戻って来る。およそ気合いの入らない土地柄なのだ。県出身の有名人は作家、芸能人、スポーツ選手などが大半で、政治家・軍人・ノーベル賞とは極めて縁が薄い。

 そんな静岡の人たちが、おそらく降参の意志表示をしていたと思われる落下傘の米兵を殺したりするだろうか。するだろう。私がその場にいたらする。十何回も町を焼かれ、女子供や年寄りまで焼き殺されて、黙っていられるはずがない。それが戦争というものだ。銃後を守れと国から命じられているのである。今でいう後方支援か。消火活動のため逃げずに頑張った人が多く、これが犠牲者の増加に拍車をかけたと県の史書にある。


 母によれば、民家も竹ヤリを備えろというお触れが出ていたそうで、しかし母方の実家は何を考えたか知らないが、竹ヤリの替わりにモップ一本で済ませていたらしい。ガンジー師のような主義主張があってのことか貧乏か怠慢か、祖父母亡きいま真相は不明であるが、少なくともこの有り様では当夜、戦場と化した静岡市の戦闘行為には参加しなかった模様である。それに二機が墜落したのは市街の西部だったらしく、実家は反対側だったため衝突と墜落も後になって噂話で聞いただけだそうだ。

 ちょっと思い出しただけで涙が出てくると電話口で母親が言うので、慌てて話題を変えた。こんなことで寿命を縮め、化けて出たりされてはかなわん。最後にお袋は息子の私と同じようなことを言った。「あんた、自衛隊だけで戦争に勝てるはずがないよ。若い人にちゃんと言っておいて」。という訳で書いておりますが、若い人がどこにどれだけ居るのか知っての依頼か。


 アメリカの焼夷弾の威力はすさまじく、逃げる母親の背中で赤ん坊が燃えていたという惨事の話などを聞かされて育てば、戦争といえば空襲だと刷り込まれても仕方が無いではないか。顕彰したい人はしていただいて構わない。私も見知らぬ親戚縁者が十名ほど徴兵され、一人だけ生還したらしいが会う機会もなく亡くなっている。彼らが勇敢に戦ったことを寸毫も疑いはしない。

 彼らが御国のために戦ったのだとすれば、それは国家という抽象的なものではなく、昔のドラマや映画によく出て来た「お国はどこですか」のお国のことだと信じている。親しい人たちが住んでいて、子供のころ遊んだ川が流れているところ。


 ちなみに、静岡の空襲や沖縄の地上戦の最終段階が六月だったのは、おそらく理由の一つとして、その春に東京や大阪を焼き尽くしたため、段々と地方に戦場が拡がっていったためだろう。

 沖縄戦は「あらゆる地獄をひとまとめにしたようなところだった」と米軍の記録にあるそうだ。新戦争論で教えてもらったが、波照間ではマラリアが猛威を振るったらしい。この島でクラゲに刺され、のたうちまわった長男が、今も波照間の海が一番きれいだったと言っている。


 最後に、もう一つ、ガキのころに読んだ元兵隊さんの随筆の思い出。彼は英語と機械操作が上手かったので、信号兵となり敵の無線を傍受する担当になった。戦争も終わりごろになると攻められっ放しで、悔しい思いの連続であったという。

 他方で、周波数を合わせて夜中に米軍の無電を聞いていると、空襲の途中などで行方不明になった友軍機を探す英語の呼びかけが一晩中、日本上空で続く。その切ない声の響きが、いつまでたっても忘れらないという趣旨だった。私が敵兵だって犠牲者だというのは、こういう話を直接間接、たくさん聞いてきたからだ。





(この稿おわり)







水海月(ミズクラゲ
(2015年6月13日撮影)






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おまけ






































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