おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

貧乏  (第943回)

 私がここで貧乏だった子供時代のことを平気で書けるのは、その程度の貧乏で済んだからだ。もっと貧しかったら、または、今も同じくらい貧しかったら、オッチョの表現を借りると、「懐かしくも何ともないね」という心境になって話せなくなってしまうだろう。

 貧乏の話題を取扱うときに、上記のような「もっと貧しい」「今、貧しい」人たちが読んだら、気を悪くするだろうなと思うことがある。でも、そんなことで悩みに悩んだら、何も言えない何も書けない窮屈な暮らしを自ら招いてしまう。この程度のことなら良かろうという自分なりの基準を持つほかない。全体主義は嫌い。


 とはいえ幾ら自分のことだからといって、貧乏自慢も、ほどほどにしないといけない。引っ越す前の実家のお隣さんは、当家と同じくらいの貧乏だったと思うのだが、何があったのか夜逃げした。うちはそこまではいかなかったから、こうして平然としていられる。例えば「この点で今とは比べものにならないほど」というような事実関係にとどめておいたほうがよい。

 親によると1960年代の実家は、平均より少し下の貧乏所帯だった。ご近所・親類縁者・クラスメート、みんな同じ程度に貧乏であったが、この同じ程度というのがクセモノで、微妙な違いがかえって気になる。実例を挙げると、近所では実家の裏の家だけ、テレビの画面に色が着いていた。うちのおやつは食パンに砂糖を塗ったものが高級品だったが、その家にいくとフレンチ・トーストというゴージャスなものが出てくるのだ。

 当然、休みの日など私の午後三時前後の行く先に、一定の偏りが生じた。やがて、この家に立ち入るのを禁止されてしまった。禁じたのはその家のフレンチ・トースト奥様ではなく、理由を聞いたうちの母親である。世間様に対して恥ずかしいということだろう。「虞美人草」のとおりであった。間もなく自宅でもフレンチ・トーストが出るようになった。ものは試しとはよくいったものだ。


 先ほどの窮屈な暮らしを自ら招くことの愚について。もう七八年くらい前のことで細部は忘れたが、「人並み」という言葉は差別用語だという大論文を、SNSに延々と書いている人がいて暗澹たる気分になった。私がいわゆる「言葉狩り」を嫌う理由は、それ以上に適切な表現が他に思いつかないとき不便になってしまうこと、そしてもう一つ、その言葉を汚くしてしまうという国語の破壊行為であることだ。

 この「人並み」攻撃は(ああ、保存しておけばよかったな)、記憶に拠れば「平均以下の生活水準の方々を差別する言葉」であり、ついては使用不可という趣旨の主張であった。これは私の考えに反する。正確にいえば、私が子供のころ田舎で使われていた語義や場面はそういうものではない。そもそも周囲で「人並み」が単独の形容動詞として使われていた覚えはなく、人並みの生活(暮らし)という言い回しであった。


 そして、これは必ずしも字面通りの平均的という意味ではない。例えば、ようやくカラーテレビを買ったときとか、子供用の自転車を買ったときとか、マキやタドンで炊いていた風呂がガスに変わったときとかに登場する。

 いずれも実家では1970年代を待たなければ実現しなかったのだが、そういう時になって「やっとこれで少しは人並みの生活が楽しめる」というふうに、自慢半分、謙遜半分ぐらいの意味合いで親しい人相手に云う。バカにしているとしたら、今まで買えなかった我が家のこれまでの貧しさをであって、間違ってもまだ持っていない家庭を軽侮して使う言葉ではない。


 おそらく、こういう言葉を葬り去ろうとしている人は善人でありつつ、でもこういう言葉を見聞きすると、せっかく潜在意識に閉じ込めていた、誰かを差別している自分の心に気が付いてしまい、こらえきれず極端な拒絶反応に走るに違いない。困るのは自粛だけで済まなくて、他者にも押し付けることが多い。

 私には、今の医学では正常な機能に高めることができない故障があるという意味において、障害が二つある。ふだん他者には滅多に気付かれないし、おそらく申請しても手帳をもらえない程度の軽さなのだが、確実に生活上の不便があり、少しだが片方はお金もかかる。子供のころは、それで散々からかわれて、嫌な思いをしたものだ。でもこのくらいなら大人になると、こちらが鈍感になるから気にならなくなって便利だ。

 
 さて、この障害という漢字表記の是非も、ご存じのように長年の社会的な課題になっている。私は本来の中国伝来の意味であるはずの「障碍」という言葉に置き換えればよいと考えている。碍子の「碍」である。110メートル・ハードルの「ハードル」のことだ。当用漢字に無いなら入れれば宜しい。しょっちゅう出入りがあるではないか。障碍が無くなる日は当面来ないだろう。

 おそらく、法律や社会保障・福祉の制度に「障害」という正式な表記が無数にあるので、変えるとなると政府や関係者が面倒という理由が最大のものではなかろうか。そんなの、取りあえず「すべての障害という表記は障碍という表記とみなす」という一行の法律を作れば充分ではないか。


 すでに、そんな拘束がない民間企業の多くは、障害者雇用が法定されて以降、新聞やネットで「障がい者」という書き方に改めている。たしか三年くらい前だったか、厚生労働省が関係団体にどちらが適切かというアンケート調査をしたところ、結果は真っ二つであった。大阪都構想と似たような結論が出てしまい、でも選挙と違って多数決だけで決められる事柄でもなく、この問題は棚上げされたままになっている(と思う)。

 しかし、この一部平仮名というのも極めて言葉の落ち着きが悪く、古い私は反対である。実際、私の周囲も意見が割れている。ともあれ雇用の仕事をしているので、制度的に「障害」を使わないとならない場合があるため、早く何とかしてくれないものかなと感じている。


 報道や言論でも歯切れが悪い。全盲とか盲(めしい)なら良くて、伝統的に訓読みしたらいけないとはどういうことか。確かにかつて差別的に使われた暗い過去を私たちの世代は引きずっているのだが、それを後世にも引き継ぐのか。私にとっては全く身体障害の差別とは関係のない「めくら滅法」や「つんぼ桟敷」といったシャープな比喩も使ってはいけないのか(すでに漢字転換ができない)。もちろん当事者の大半が、比喩だろうと絶対使うなと仰るのなら異論はないが...。

 まるで敵性用語扱いだな。「ペニーレインでバーボンを」は売ることすらできないのか。窓のブラインドは売っても良いのか。このブログは「はてな」に抹消されるかもしれない。それなら私が1970年代に買い入れた多くの手塚作品や「あしたのジョー」、白土三平カムイ伝」にも放送禁止用語がいっぱい出てくるので抹殺しなければなりません。


 それでも古典文学は残るぞ。仮に表から追放しても、ネットに蔓延るだけだろうが。なお、焚書坑儒を実施するにあたっては、レイ・ブラッドベリの「華氏四五一度」を熟読のうえ再考されたい。以上、そのうち貧乏も話題にできなくなってしまうと困るので、反感を買うかもしれないのを承知で早めに書き遺す。

 ことのついでにいうと、ケンヂの遠藤家は裕福とまでは言えないだろうが、同じころの私の実家や近所親戚と比べると、まだましな方である。根拠を二つ挙げる。1960年代に二人の子供にそれぞれ個室がある。一人はまだ小学生だ。もう一つ、アズキ相場に手を出せる金がある。そもそもアズキ相場の存在を知っていること自体がすごい。


 ネットに触れたので、せっかくだから書き記します。なぜこういう形で罵詈雑言がサイバーネット空間にあふれるのか。匿名性もあるだろうが、最近は実名らしきFBで堂々とヘイト・書き込みをしている人もいるのだから、匿名だけのせいではない。おそらく、日常生活で言えなくなってしまったからだ。

 去年だったか新聞で、英語に「domestic humor」という言葉があると日本語が達者な欧米の人が書いていたのが面白かった。このドメスティックはGDPのような「国内」ではなくて、もう一つの「家庭」「身内」というミクロなスケールのほうの意味である。DVのD。

 うちの中とか、極めて親しい仲間内でしか使えないユーモアのことである。典型は上司や顧客の悪口。マルオの「どうせケロヨンだし」とか、マルオの奥様の「頭にも脂肪がついちゃったの?」も含めてよい。


 狭いながらも楽しい我が家とは清廉潔白なものではなく、よそで言えないセリフを吐きながら少しずつ悪を発散することにより、外での大爆発を避ける知恵のことをいう。そういうドメスティックな場が現実の中から消えつつある。がんばれ子供たち。素直なだけが取り柄では上手く生きていけない。親や教師がダメだということの大半は、時と場合によることを学んでくれ。


 雑談で終わろう。1980年代の後半、アメリカ映画で「摩天楼はバラ色に」という、原題を根底から無視した邦題の映画があり、当時の英語教師だったイギリス人女性と学友何人かで観に行った。

 英語のセリフの中に「びんぼう」という言葉が出てきて、みんなも驚いたらしく後で話題になった。立派な英単語で「bimbo」と書き、蠱惑的だが脳足りん又は取るに足らない女というような意味であると英英辞典にも載っている。


 この映画のスト―リー自体は、「プリティ・ウーマン」的なよくある荒唐無稽の成功物語で、アメリカン・ドリームなんて滅多に無いからこそ、こういう映画が後を絶たない。先生に感想を聴かれたので「現実味が無い」と言おうとして英語で言えない。

 やむなくゴチャゴチャしゃべっていたら、さすがはベテランの英語教師、あんたが言わんとしているのは、”far from reality”だろうと教えてくれました。「リアリティ、ねえわ」と訳す。あの先生、元気だろうか。パット・ベネターと大相撲のファンだったのを覚えている。





(この稿おわり)






上野寛永寺 六地蔵
(2015年5月14日撮影)





こちらは拙宅の植木鉢に、勝手に生えて来た何か。
(2015年5月21日撮影)











 みんなみんな いいやつばかりだと 
 おせじをつかうのが おっくうになり
 なかには いやなやつだっているんだよと 
 おおごえでさけぶほどの ゆうきもなし

          「ペニーレインでバーボンを」  吉田拓郎






 Your American dream didn't mean a thing.

          ”Suburban King”    Pat Benatar





























.