おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

あのバンド  (第937回)

 話題はケンヂたちのバンドである。名前は今もない。生放送の事故で追い出されたときは、ボーカル兼ギタリストの別名から採ったのか「バカバンド」と呼ばれていたが、まさかこれが本当のバンド名ではあるまい。宮本武蔵の漫画名と少し似ている。映画ではポスターにバンドの名前が載っていた記憶があるが、漫画のほうは幾ら探しても出てこない。

 何度か話題には出ているのだ。ドラムスのチャーリー春さんは、カンナやヨシツネに思い出話を語るけれども「あのバンド」としか言わない。ケンヂなどはソロになっても「あの歌手」で処理されている。無料の出演ならともかく、これからワールド・ツアーに出るのなら、名無しでは興行に差し支えるだろう。

 いっそのこと、そのまま「あのバンド」ではどうかというのも一案だが、古めのロック・ファンには「パクった」と言われるのが落ちだな。実例があるのです。「The Band」というのが。かつては彼らも普通の固有名詞のバンド名があったのだが、ボブ・ディランを含め周囲が「あのバンド」としか呼んでくれないので面倒になり、こちらを本名にしたのだと当人たちは映画「The Last Waltz」で回想している。


 私は二十代の後半にLAで働いていたころ、職場の同僚で同年代の白人男性と夕食時にお喋りをしていたとき、つい「アメリカン・ロック・バンド」を聴いて育ったと偉そうなことを言ってしまった。

 というのも、一般に当地では社交の場において、政治と宗教の話は禁物である。せっかくの団欒の機会なのに、敵を作ってしまうおそれがあるし、味方と思われると尚さら困る。だからと言って無理すると...。


 相手は「例えば?」とまっとうな反応を返してきた。ここで思慮の浅い返事をしたのがまずかった。真っ正直にLPを持っていたミュージシャンの名を挙げてしまったのである。「ビートルズストーンズ、ZEP、パープル、キング・クリムゾンピンク・フロイド...」と来たあたりで失敗に気づいた。全てアメリカンではなくて、ブリティッシュだったわい。

 先方はニヤニヤ笑って聞いている。どうせこの日本人は同じ英語ならアメリカもイギリスも同じだと思っているのだろうという感じで、正確に見抜いていたようだ。そこで慌てて「ボブ・ディラン」と付け加えたのだが、ディランをロックと呼び切って良いかどうか議論の余地があろうし、そもそも間違いなくバンド名ではない。


 知ったかぶりをするから、こういうことになる。どうして人間は中途半端な知識があるときに限って、威張りたがるのだろう。ともあれイギリスのロックが70年代に人気だったのは、渋谷陽一の影響が大きかったかもしれない。同級生たちも皆そうだった。

 一方、私の一回り上の世代は、戦後第一次のベビー・ブーマーで、本当はGSを聴いていたのが大半のはずだが、ロックの世代だと言い張る人が少なくない。私の上司の一人に「団塊の世代の厳しい生存競争を勝ち抜いてきた俺」が自慢のおっさんがいて、口癖の一つが「俺たちの年代はビートルズを聴いて育った」というものだった。

 とてもそうとは思えず、ある日、長距離を車でご一緒する際に延々と「ホワイト・アルバム」を聴かせてみたところ、案の定「何だ、これは」という文句が出た。ビートルズだと言っても信じない。「一曲も知らない」というのが、その理由であった。


 彼と同世代の渋谷さんも仲井戸麗市も、どこかで「学校のクラスでビートルズを聴いている男は、一人か二人ぐらいしかいなかった」と語ってたのを覚えている。来年で来日50年というから大昔の録画だが、唯一の来日ツアーでビートルズが武道館をいっぱいにしたとき、歓声を上げていたのは娘たちばかりだった。どうしようもなく、4人はアイドルだったのである。

 他人のことは言えないが、嘘で威張っても、ろくなことはないのだ。案外、私たちくらいの世代(1970年代にティーンエージャーだった新しい人類)が、本格的にロックを聴き始めた年代かもしれない。これはセンスの問題ではない。

 まだビートルズウッドストックのころは貧乏国だったのに、T.Rexデビット・ボウイが出て来たころになって、ようやく親はステレオを買えるようになり、子供も学校でラジオを作ったり、レコードやカセットを買えるくらいになった。ボブ・ディランジョン・レノンの影響を受けた邦人の若いシンガー・ソング・ライター(知ってます?)が、続々と出て来たのもこのころである。


 タイ料理はタイで食べた方が美味しい。本場の素材と気候風土と料理人の腕というのは侮りがたい。一年二年とアメリカで暮らすうちに、ようやく私もアメリカのロックを聴き、好きになってきた。オールマン・ブラザース、CCRCSN&Y、レナード・スキナード、ドゥービーズ、エルビス

 ロックと呼ぶかはどうかはともかく、オーティス・レディングやスティービー・レイ・ヴォーン。ジョン・クーガー・メレンキャンプブルース・スプリングスティーンダイアー・ストレイツ。ガンズとR.E.M。思いきりアメリカン。


 ザ・バンドも遅ればせながら、そのころ聴き始めたバンドである。もっとも、5名のメンバーのうち4人はカナダ人なのだが、活躍の場はアメリカだったし、残る一人の米国人が好きだった。レヴォン・ヘルム。歌うドラマーは決して少なくないが、あのハードな音楽でドラムを叩きながら、あれだけパワフルに歌える男は少ない。声も良いし、音を外さない。もっと長生きしてほしかった。


 映画「ザ・ラスト・ワルツ」は、1970年代の半ばに彼らが解散したときの記念コンサートの映像を中心に作られた。監督のマーチン・スコセッシは、最後のコンサートの後でメンバーのインタビューを収録したため、みんな疲労と脱力感、そしておそらく酒や薬のせいだろう、今一つ精気に欠ける。だが、レヴォン・ヘルムの少年のような瞳の輝きと、才気あふれる語り口は、ひとり異彩を放っている。

 若いファンにおかれては、「20世紀少年」に出てくるロッカーやバンドのうち、1969年に亡くなった人たちは手遅れだったが、何人かがこの映画のステージに出てくるので一見の価値があります。若き日のエリック・クラプトンニール・ヤングボブ・ディランロン・ウッドリンゴ・スターの大真面目な顔を一つの映像で見ることができる機会など、そう滅多にあるものではない。


 ザ・バンドボブ・ディランのバック・バンドを務めているうちに、腕を上げ名を上げた。ウッドストックにも出たし、「イージー・ライダー」にも曲が流れている。ようやく、せめてものこと「あのバンド」と、認知されたころである。

 本人たちによると下積み8年、本格稼働8年、もう16年もやっているとこの先どうなるか怖いとギターのロビー・ロバートソンは解散の理由を語っている。売れなかったころは、みんなのチーム・ワークで飲みもの食いものを万引きしては飢えをしのいでいたらしい。

 ロックに限らないだろうが、出て来た時にはすでに超一流の者もおれば、段々と上手くなる者もいる。初期のアルバムを聴けば、ある程度、後世でも分かるだろう。ジミもジャニスも、ジム・モリソンもブライアン・ジョーンズも、一体どこで離陸したのか知らないが、いきなり天を駆けるように現れて消えたのだろう。


 少なくともザ・バンドの歌とキーボードとドラムスは凄いよ。あのサイケデリックな時代に、ザ・バンドは正攻法すぎて、長いこと目立たなかっただけなのかもしれない。「今に分かってもらえるさ」というケンヂの口癖は、案外それと同じような意味合いだったかもしれない。

 なお、この映画ではマディ・ウォーターズの元気が姿が見られるのが嬉しい。ザ・ローリング・ストーンズも、「ローリング・ストーン誌」も、”Like a Rolling Stone”も、それぞれの長い旅は彼から始まったのだ。こうして、のんびり休みの日にロックを聴いていると楽しい。






(この終わり)





 


好きなんだ昔から、アヤメの花が。
(2015年5月8日撮影   ”First of May”)







 In the winter of '65, we were hungry, just barely alive.
 I took the train to Richmond that fell.
 It was a time I remember, oh, so well.
 The night they drove old Dixie down.

                   The Band











 俺たち何かを求めてわめく うるさい Rock and Roll Bnad
 誰も見向きもしない スクランブル交差点で歌っている
 ご覧よ さみしい心を閉ざして歩くよ Hard Worker
 自分の暮らしが 一番 自分を傷つけると泣いてる

            「Scrambling Rock'n'Roll」   尾崎豊







































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