おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ずっと  (第932回)

 これから4回に分けて、以前、先送りにした諸問題をもう一回、考える。連休中に下書きしました。いつもどおりの言い訳で始まるが、現時点で回答を出せる自信はないし、出しても正解かどうかは分からない。でも再考すると宣言した以上は守る。とはいえ一度に何もかもは無理なので、今回はケンヂとカツマタ君の関係に絞る。カツマタ君に関心のない方には退屈だろうなあと思います。

 一通り感想を書き終えてから、連載時や終了直後に当時の愛読者諸兄の書いたブログその他をいくつか読んでみたのだが、拝読した範囲でカツマタ君に関しては「誰だ?」という叫び声のようなものと、「影が薄い。これには何か訳がある」「途中で彼だと分かった(あるいは、そう言っていた人が周囲にいた)」という醒めた感じのものが多かったように思う。そしてイジメの犠牲者といったあたりで落ち着いた感じを受けた。


 自分のこれまでの論調もそうだったから他人様のことはどうこう言えないが、小学校時代にケンヂが黙っていたせいで冤罪の犠牲になり、死んだ人間になってしまった腹いせというだけで、半世紀後にこれだけの悪に走るのか。その疚しさだけが理由で、ケンヂは最後に彼を許そうとし、穏やかに看取ったのかどうか。もう少し考えてみたって悪くない。

 先送りした諸課題のうち、主なものは(1)ケンヂがいつバッヂ事件のことを思い出したか、(2)その事件の犠牲者が今の”ともだち”であることに、何時どのようにして気付いたのか、(3)それがカツマタ君であるという結論に至った根拠と時期はどこにあるか。始めから弱気だが、特に(3)は難問だ。でも初回からくじけると後が続かないので、今日は簡単なことから始める。


 上記の(1)について、ケンヂは第22集でこういっている。場所はレプリカの小学校の校庭で、すでに陽が沈んでいる。相手はリモコンを持って威張っている”ともだち”、同行者はマルオと氏木氏。複数の第三者が見ている前でということは、これから話すことが周囲に知られても一向に構わないという覚悟を示している。

 実際、取引材料として万博会場のみんなの前で懺悔すると言っているのだから、本気だろう。この主人公の美点は正直であることだと私は思っている。ただし、その表現の仕方があまり上手くないことが少なくないため、人を怒らせたり嘆かせたりしているだけだ。では、彼は何といったのか、おさらいします。


 彼は目玉覆面に、お前が悪の大魔王であることを思い出せと罵られたのに対して、「俺、全部、覚えてる。」と土下座の姿勢で語り、相手を驚かせ、マルオを不審がらせている。マルオはケンヂと再会したばかりなので、ケンヂと”ともだち”の過去の関わりなど知るべくもない。彼も同じ日に懐かしのバッヂが当たったため世界が変わったのだが、そのことは作者と読者しか知らない。

 続けてケンヂは「俺、全然、忘れたことなんかないよ」「ずっと後悔してた」「ずっと心の奥で決着つかないままだった」と言葉を換えて、お詫びを挟みながら話し続けている。ケンヂについて、散々、記憶力が悪いと書いて参りましたが、主人公の割にという程度のことで、凡人並みであろう。私も殆ど過去のことなんか忘れており、旧友や家族のほうがよほど本人の私より私の過去に詳しい。


 これに対し世界大統領は「よせ」と制し、「なんで、おまえ覚えてるんだよ」と無茶なことを言う。彼が感情的になっているのは、ケンヂがあの過去を覚えていると(思い出すと)、そして謝ると、「遊び」が終わってしまうかららしい。つまり、彼の「あそびましょー」は、自分が正義、彼が悪の大魔王という対立関係でないと成立せず、さーて私は誰でしょうという覆面遊びであろう。

 ひねくれているのは、自分が誰なのか「ケンヂが知っているよ」とカンナに、後にマルオにも言っているのだが、おそらく当人が思い出したときの驚愕と後悔をみて楽しもうという魂胆だったに相違ない。それなのに、その本人が覚えていると白状し、ごめんなと無造作に謝罪してきたので、積年の恨みと、おもちゃ箱を取り上げられた怒りが炸裂したものと思われる。


 あの夏休み以降、ケンヂは秘密基地を離れがちになり、神様に土地ごと奪われ、解散式もしたうえでロックに走った。一時期は一人でラジオを聴いていたらしい。しかし、姉キリコとしては、弟がホウキ・ギターであばれたり、楽器屋のショー・ウィンドウにヤモリのごとく貼り付いていたりでは遠藤酒店の商売に差し障るとみえたらしく、デートとの物々交換でエレキを入手して与えた。

 ケンヂもこれまた正直に、バンドを始めたのは姉ちゃんにも責任の一端があるとご尊父の葬儀の席上で語っていたものだ。しかし、過去に忸怩たる思いがあって単にハードな音楽に逃避していたのではないことは、相手もどうやら自分の謝罪を受け入れたらしい最期を迎えたのちも、新曲がじゃんじゃんできるバンド復活を喜んでいることでわかる。ようやく好きな音楽が好きなだけできる。


 繰り返された「ずっと」という彼の言葉は、いつの時点から「ずっと」なのか。普通に考えれば事件が起きた時点から、ずっとであろう。ただし上巻で、ババにお面を奪われて泣き伏せている少年の姿をみつめるケンヂの表情は、外見に限れば、半生にわたり続く後悔が早くも始まっているようには見えない。むしろ、その場からはこっそりと素早く逃げた模様である。

 それでは、(1)のいつバッヂ事件を思い出したかについては、出来事自体はずっと覚えていたとして、モヤモヤしているだけでは気が済まなくなるほどまでの後悔は、何時どういう風に始まったのか、あるいは深まったのかは、上記の(2)その事件の犠牲者が”ともだち”であることに、何時どのようにして気付いたのかに関わりそうなので一緒に考えることにする。




(この稿おわり)




春が来れば咲き出す当家のジャスミン (2015年4月28日撮影)







 I was dreaming of a steel guitar engagement
 when you drunk my health in scented jasmine tea.

    ”Let It Bleed”  The Rolling Stones


 香り豊かなジャスミン・スンティーで 
 俺の健康にご配慮いただいていたころ
 夢を見ていたんだ 
 スティール・ギター一丁で生きていく夢を













































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