おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

次の館長 最後の夜  (20世紀少年 第907回)

 前回の続き。神父さんの後任の映画館長には、ナポリから来た男が就任した。まさかの火事で、シネマ・パラダイスは焼け落ちてしまう。直前まで映写技師の好意により、屋外の急設スクリーンで映画を楽しんでいた群衆は、炎と煙に恐れをなして恩人を置いたまま蜘蛛の子を散らすように逃げ去ってしまった。

 ひとり広場で映画を楽しんでいたトトは、つい先ほど、外で観ておいでと送り出してくれたアルフレードを救出すべく、シネマ・パラダイスの緊急用らせん階段を駆け上がる。アルフレードは目や脚をやられて床に倒れ伏したままだった。トトは自分の倍以上もありそうなその巨体を毛布でくるんで階段から下ろすが途中で力尽きてしまう。


 幸いそのあと誰かが手を貸してくれたようで、アルフレードは一命をとりとめ、トトは栄誉ある恩師の命の恩人となった。しかし、問題はアルフレードの職場が燃え尽き、彼の視力も失わてしまったことだ。

 現場と職人を喪い、焼け跡を呆然とながめながら、神父さんは再建する金がない、もう村の人たちに楽しみを提供できないと嘆く。パラダイス・ロスト。そこへ偉そうに颯爽と現れたのが、ナポリから来た男であった。

 このシーンの前までに、彼がシネマ・パラダイスで映画を楽しんでいた光景を見た覚えがない。たぶん彼の初登場は、トト・カルチョらしき賭博行為で大金を引き当てて卒倒する場面である。傷心の神父さんの隣で、ナポリ男は葉巻をくゆらせながら何やら得意げに企み事をしている様子である。


 その後の経緯は詳しく描かれてはいない。映画館は突然、ニュー・シネマ・パラダイスと改名され新装開店した。この資本家はやっぱりナポリから来た男で、あぶく銭には違いないが、立派な使い方をしたものである。

 このときから、ナポリから来た男は映画館長という重職に就き村人の一員となった。何より観客が喜んだのは、「もう20年も観ていない」キス・シーンをふんだんに楽しめるようになったことであった。


 この館長はアルフレードの葬儀の日、映画館がつぶれた理由をトトに訊かれて、客が減った、テレビとビデオのせいだと言っている。ビデオは原語ではカセットと聞こえるので、昔ながらのVHSかベータのような家庭用のビデオ・カセットのことだろうか。私たちの世代が、これらに夢中になり映画産業は斜陽化した。

 このビデオとテレビを初めてアルフレードに紹介したのがトトである。アルフレードの瞳は光を喪っているが、実務経験の豊かさでいえば、この村一番の映写技師であることに変わりがない。新たな文明の利器を知り、アルフレードはトトの今後を不安に思った。
 

 もっと緩やかに時間が流れていた彼の現役時代でさえ、小学校も出ていない彼が勤勉さと今後の腕力を買われて、ハンドルを回す方式のサイレント映画の映写技師になったのに、時の流れはそれらを過去に押し流して、トーキーと回転式の映写機が活躍する時代になった。

 それでもまだ、映画は映画であった。しかし、テレビやビデオは異なる媒体である。これらで観ても映画は映画にあらず。映画はシネマで観るべきものなのだ。あのサイズとあの音響で観るようにできているのだと私は今も信じている。


 トトが8ミリを動かして見せるシーンの直前に、アルフレードはトトに対し、チャプリンの「モダンタイムス」が上映されているだろうと当ててみせ、良い映画だと喜んでいる。でもそのあとで彼は、かつてこれを観終わった後、映画の内容を聞いて衝撃を受けたとも言った。その理由を彼は語らないし、トトも聞き漏らしている。8ミリのエレナを早く見たいのだ。

 モダンタイムスは、カール・マルクス風にいうと、機械生産に走る資本主義のせいで労働者の人間性が疎外されるというような意味合いをこめた、コメディのような警世の句のような恐るべき作品である。


 こんな映画のあとで8ミリを知り、さらに後ほどテレビ映写機の存在まで教えられて、アルフレードイノベーションの嵐が、シチリアの小さな島にまで押し寄せてきていることに戦慄している。

 トトの職は、そしてトトが身に付けた技術は、これからも生き延びるのだろうかとアルフレードは自問自答したに違いない。出た答えは悲観的だった。そしていまトトをこの地に引き止めて離さないのはエレナへの想いに尽きる。


 アルフレードが悪戦苦闘して二人を引き離そうとするさなか、何たる天の配剤か、エレナの一家が村から遠くに引っ越すことになった。恋する二人は連絡を取り合うことを誓いつつ、その証に最後の最後、ニュー・シネマ・パラダイスの映写室で会おうとする。

 物音を聞きつけてトトがあのらせん階段を駆け下りたとき、立っていたのはなぜか一人で出歩けないはずのアルフレードであった。よほどの決心があったに違いない。待ちきれないトトは留守を彼に頼んだだけで、ポンコツの愛車に乗って出かけてゆく。


 この少し前のシーンで、翌日からローマでの兵役が始まるトトが、憂鬱そうに映写室の窓から広場を見下ろしている場面が出てくる。その彼に下から声をかけてきたのが、ナポリ出身の館長だった。この時のシーンはエンディング・ロールの、役者紹介にも使われている。館長はトトを見上げながら、こんな風に言った。

 いま上映中の「さすらい」は良い映画だが、観客が理解できん。これを最後に次は別の映画を上映する。新しい技師が来るが、おまえを待っているからな。トトは力なくうなづくばかり。これからの上映に彼は参加できないのだ。


 この「さすらい」の一部の場面は、本作中に音声入りで出てくる。私はこの映画を観たことがない。ただし、登場するシーンからして悲劇のようだ。主演、アリダ・ヴァリという字幕も見える。

 彼女は映画史上で屈指のラスト・シーンといわれる(私もそう思う)「第三の男」の終幕で、何もしないという恐ろしい演技を見せて、世の男たちの胸をつぶした。「私を捨てないで」とは言ってくれなかった。


 さて、トトはエレナの家にたどり着くが、いくらドアをたたいても反応がない。部屋の中の家具には白い布が被されて、引っ越しを待っている。屋内でじっとトトの混乱をやりすごそうと黙って耐えているのは、エレナの母ひとり。肝心のエレナは父をようやく説得し、最後に一度だけという約束でニュー・シネマ・パラダイスに向かっていたのだ。


 彼女はどこかで、トトとすれ違ってしまったのである。映写室にはアルフレードしかいなかった。あのとき「彼は優しかった」と後年、エレナは語っている。

 私が若いころの日本の田舎でも、ごく日常的に婚約や結婚の際には「両家の釣合い」というのが話題になり、問題になった。貧富の格差、教育の格差が、今とは比べものにならないくらい大きかったのだ。


 アルフレードはそんな話題を持ち出して、エレナの決意を促す。彼女の記憶によれば、承知して一旦去りかけ、そのあと静かに引き換えして、アルフレードに気付かれないよう静かに、トト宛てに手紙を書き遺した。そして壁のクギに刺した。

 視覚を持たないアルフレードが、こんな長い手紙を書いて貼りつける彼女の気配を全く悟らなかったとは思えないのだが、ともあれ何らお咎めは無かった。アルフレードは当人がはっきりと語るように運命論者である。彼は人事を尽くした。あとは天命を待つのみである。


 ちょうど「さすらい」のラスト・ランが終わって、客が騒ぎアルフレードが狼狽しているときに、天命のトトが帰って来た。誰か来たかと問う若者に、アルフレードはそっぽを向いたまま首を横に振る。トトは裏切られたと受け止めた。そのまま片付けに入る。

 終わったばかりの「さすらい」のフィルム・プリントを仕舞って、次の映画を取り出した。彼が長袖のセーターを着た右手で、かつてアルフレードに教わったとおり、次の映画の保管票を壁のクギに刺すシーンが続く。左利きのトトが右手でこの作業をしたのは、たぶん左手で新しい映画プリントを拾い上げていたからだろう。

 こんな心境でこんな動作をしていたから、きっとトトは気が散って気付かなかったのだ。今しがた突き刺した保管票の下には裏返しの「さすらい」の票があって、その裏側の白紙にエレナのメッセージが残されていたことに。それは別れの挨拶ではなかったのに。


 後年、このことをエレナの口から聞いたトトは、廃屋となったニュー・シネマ・パラダイスの映写室に戻る。壁いっぱいに代々の映写技師が突き刺した保管票がある。トトが机の上にひっくり返した一束は、最後の一枚をめくると「白鯨」であった。ちょうど、あのころに上映した作品である。

 トトが一枚一枚めくり続けると、裏返しの「さすらい」の保管票があった。裏面に書かれた手紙は、読むのが30年ほど遅かった。漫画「20世紀少年」と、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」には、時代設定上、ほんのちょっとした共通点がある。すなわち主人公にとっての現在が時代設定の一つで、もう片方が30年前の俺達の町だった。



(この稿、もう少し続く)





フィレンツェの塔  (2006年5月25日撮影)


















 There's none so blind as those who will not see.

     (英語の諺)