おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

A Day in the Paradise  (20世紀少年 第906回)

 もう二年も前になる。カンナが鳴浜町に向かうくだりで、映画「ニュー・シネマ・パラダイス」を引き合いに出した。その後、同映画の愛好者でもあられる●ンヂ様より度重なるコメントを頂戴したこともあり、もう一度観て、もう一度書きたくなった。これから三回は映画の感想文です。

 まだこの映画を観ていない人は、ストーリーの細部に触れますのでご注意ください。すでにご覧になられた方は、何だこれはと思われましょうが、変な見方もあってよいかという観点からお読みいただけると幸いです。この映画の演出や音楽や役者やエンディングの魅力は、他の方が大勢書いておられるので私の出番はない。だから、普通の映画評論にはならないと思う。


 まずは神父さんにご登場願おう。もう20年余り前か、初めてこの映画を観たときの神父さんの印象は、映画の肝心な場面を捨て去るという、単なる意地悪な映倫じいさんであった。改めて見ると正反対である。

 最初に朝の教会でトト少年が眠りこけている場面が出てくるが、学校のない日なのだろうか。早朝から神父さんのお手伝いをしているらしい。彼の父親は戦地に赴いたまま行方不明であるため、まだ恩給も出ない。トトはうちでは昼ごはんは食べないと、ミサの途中で睡魔に倒れた言い訳をしている。

 彼も村の人たちも貧しい。しかも健康指導をしてくれたのは獣医さんだとトトはいう。神父さんはそんな彼を使ってくれているのだ。外出の用があると言って神父さんはトトを追い払おうとするが、少年は例によってクレヨンしんちゃんのようにジタバタして反抗する。


 外出の前に神父さんは検閲の仕事をしなければならない。彼が鳴らす鐘は、先ほどトトが露払い役で持っていたベルだろう。手で合図だけすればよいものを、わざわざ大騒ぎするのは後ろでアルフレードがニヤニヤ笑いながら観ているからか。

 トトもカーテンの陰で笑いながら眺めている。シネマ・パラダイスでは、キス・シーンに限りこの三人が寡占しているのだ。しかも、神父さんは観客席も一人で借り切っている。キリコやカンナみたいだ。羨ましい。

 彼も本当にラブ・シーンが汚らわしいと思うなら、そういう場面のない映画だけを取り寄せればよいものを、神父さんはせめて、その前後の場面だけでも出てくる良い女などを村人に見せたくて、そして多分、自分も見たくて恋愛ものを集めてくる。アルフレードは余計忙しいが、淡々と仕事をこなす。


 外は暑い。坂を登る神父さんとトトを、自転車のアルフレードが追い抜いていく場面がお気に入り。「行きは神のご加護があったが、帰りは見守って下さるだけだ」と神父さんは父なる神の厳しさを説く。「また夜にな」とアルフレードと声をかけあっているのは、日が沈むと仕事や学業を終えた騒々しい連中が映画を見に来るのだ。村で一人の教会守りとなると聖俗ともに忙しい。

 この場面では、なぜかトトが急に腹痛を起こして悶絶し、アルフレードが子猫のように拾い上げて自転車のカゴに放り込んでいる。子のない男と、父を失いつつある子は、本当の親子よりも親しくみえる。この二人はこのあとも小細工の共犯を繰り返しては暮らしを楽しみ、神父さんなどは後年、職場でも被害に遭った。アルフレードの心に異端らしき悩みとやらが宿ったという一大事の際である。


 小さな村の現実は厳しい。ある日の神父さんの外出先は、村人の葬式であった。葬儀の列の先頭を行くのは、白衣を羽織った神父さんとトトである。昼間は農作業をしているらしいアルフレードがそれに気づき、オリーブ畑で農作業の手をしばし休めた。もしかしたらアルフレードはこのころから、トトの行く末についての不安を、自らの実情と照らし合わせて考えていたのかもしれない。

 この棺はトトの身体よりも小さそうだ。この作品で棺が出てくるのは最初と最後の二回だけである。こんな土地の人々に神父さんはせめてもの娯楽場として映画館を設け、神の許したもう限りにおいて男と女の物語の数々を提供した。彼の聖書によれば、人類の最初から男と女はこんな調子だったのだから仕方がない。聖職者を措いて誰が映画館にパラダイスと名付けようか。

 
 この作品の幕開けは、地中海の穏やかな空色の海から始まる。かつて一度だけ、このすぐ上を飛行機で飛んだことがある。映画の冒頭では窓枠が海を長めの四角に区切り、両側にレースのカーテンがひらめいて、遠い昔の映画館のスクリーンと緞帳のように見えなくもない。海を渡る風が鳴らす風鈴の音が、オープニングの音楽に溶けていく。

 最初の登場人物である老婆は、シチリアからの長距離電話で、連絡先が分からない息子のトトを捜しているところだ。アルフレードは自分が死んでもトトに連絡するなという奇妙な遺言をしたと、後に妻のアンナおばさんがトトに伝えている。アルフレードは、将来戻って来るときには故郷も村人も温かく迎えてくれると言ってトトを送り出したが、実は戻ってきたときのことが心配だったのだろう。


 その予感は間違っていなかったのだが、ともあれトトの母にすれば、息子には勿論これを機に再会したいし、この機を措いて他にトトの帰省すべき用事があろうか。彼女の家は昔と違って立派な一軒家だ。当時の女手だけの働きと恩給では建たないような家だ。妹さんの旦那が働き者だったのだろうか。トトが実家に仕送りしていた形跡はない。

 この映画で最初に出て来たときの母上は、まだ若くて美しく長屋の小部屋で裁縫をしていた。そしてトトが帰って来た新しい家でも裁縫をしている。引きずられて解けゆく編み物の動きが止まったころ、母子は三十年ぶりの再会を果たしたのだろう。見せたいものがあるのとトトを招いた部屋の壁には、彼の両親の写真、ストロボの光に飛び上る直前の少年時代の彼、シネマ・パラダイスを背景に立つアルフレードの勇姿に、トトのおまけつき。


 かつて、育ての父と実の母に説得されて、青年トトは汽車で故郷をあとにした。トトは確かに恋愛と兵役の件を除けば、周囲の理解と協力に恵まれた旅立ちだったと思うが、こういう風景は世界中に今も昔もきっと沢山あって、情熱があり才能もありそうな青少年がいたら村の人々は寄ってたかってこれを大人にし、都会へと放り出すように送り込む。村の駅にはその代表者が来てくれたのだ。アルフレードと母、発車に遅刻した神父さん。

 火事騒ぎを起こしたとき、母はアルフレードを責めた。その前に牛乳代の50リラを工面してくれたときも、彼にお礼を言ったものの表情は硬かった。トトを惑わす男に過ぎなかった。でもあの時に燃えたフィルムは、確かにアルフレードが扱ったものではあるが、トトがこっそり盗み出した暴力シーンのかけらだったことは、その持ち出すシーンとガンマンらのマネをするシーンからして想像がつく。


 アルフレードはそんなものを少年がため込んでいるのを知らなかったのだが、娘を失くす直前だったと取り乱す母の前で弁明もせず、すべて腹に収めてトトをかばった。母の心が解けていくのは、ニュー・シネマ・パラダイスでトトが後任として働きだしたとき、弁当を持って行ったり発熱した息子を看病したりしながら、アルフレードとトトの職場環境がいかに過酷なものであるかを知ったことにもよるのだろう。

 その後は家族ぐるみで一緒に晩餐を楽しむような仲になる。そして彼女はアルフレードの最後の言付けにもかかわらず、トトを探すべく次々違う女が出てくる電話をかけ続ける。ようやく間に合ったのが葬式の前夜だった。ベッドに横たわり、アルフレードの訃報を聞くトトの顔が稲光に照らされ、上空に雷が鳴る。この映画は古いサイレントの白黒映画のように、光と闇の使い方が上手い。

 
 でも陰影礼賛のような静寂の世界ではなくて動的な光景だ。雷鳴と稲妻だけで何回も出てくる。葬儀前夜のローマ、トト青年が街角でエレナに「いい天気だね」と日本人的な挨拶をした途端の雷鳴一発。キス・シーンの独擅場であった映写室で、初めてその二人が口づけを交わすシーン。夏の映画祭りで雨に打たれるトトのもとに嵐の中を戻って来たエレナ。

 何より映写室そのものが、光と影の走馬灯が回るような暗室である。そして、車の中で話し込むトトとエレナの横顔を繰り返し照らし出す灯台の灯り。彼女の決然とした態度が、この映画の最後をしっかり締めくくる。禁じられた遊びから幾星霜、緑の瞳の少女は大人の女になっていた。


(この稿つづく)





イタリアの広場  (2006年5月29日、ローマにて撮影)







 「友達は顔つきで選ぶ」    − アルフレード 談































  I read the news today oh, boy,
  about a lucky man who made the grade...


      ”A Day In The Life ” The Beatles









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