おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

小道具 (20世紀少年 第901回)

 今の仕事が一段落したら甲子園まで母校の応援に行こうと思っていたのだが、仕事の腕が悪くてその前に敗退してしまった。一点差の好試合だったが、やはり校歌を聴きたかったので残念。ともあれ後輩の野球部員たち、よく戦った。よくここまで来た。

 今日も甲子園では黙祷をするのだろうか。それはそれで反対しないが、なぜ敗戦記念日だけやるのだろうね。サンフランシスコ講和条約の締結は9月8日で、その日まで引き続き日本はソ連の乱暴狼藉に耐えていたのだ。もっとも、この条約の批准は当然ながら後日であり、発効は更に後だから、区切り探しもキリがないか。


 旧暦の8月15日は中秋の名月の日でもある。この話題、前にも出したかなあ...。こうも長くやっていると、とてもではないが書いたこと全てを覚えていることができない。プロの作家ですらそのようで、ときどき新聞や雑誌で長期連載された小説やエッセイが本になると、同じ話が繰り返し出てくることがある。

 さて、小欄でも映画の話題ならまだ歴史が浅い。DVDを買って何度か観た。映画「20世紀少年」をロードショーでやっていたころは、私の職業人生で文句なしに最も多忙な時期だった。映画館に行く時間など殆ど無かったし、観に行く元気は更に無かった。


 そんな訳で映画好きのくせに初めて観たのはいつかとなると、このブロクを始める少し前くらいに、ビデオを借りて一度だけ見た覚えがある。一度だけだとストーリーやセリフを追うだけでほとんど精一杯である。改めてDVDでのんびり観ていると細部も目に入ってくるようになって、これはこれで楽しい。

 文句つけても仕方がないが、本作のDVDに限らず、なぜ最近は無闇に「劇場上映公開版」と「特別編集版」等々の両方を売るのか。その分だけ値段も高かろう。私は上映版だけで充分なのだが。せっかく撮影したのに上映時に泣く泣くカットしたシーンを加えたいという制作サイドの気持ちも良く分かるけれど、結末さえ違うなんてものを売り出すとしたら、それは映画館まで足を運んで金払って観てくれた人に非礼ではなかろうか。


 まあいいや。私一人、遠吠えしてもこの風潮は変わるまい。前向きに行こう、前向きに。ケンヂが二人組の若者に拍手してもらった血の大みそかの路上ライブのシーンを先日ながめていたら、さすがDVDをPCの大画面で観ていると細かいものまで目に映る。例えば商店街に捨ててある新聞の広告に「ゆうりき」と買いてある。「ゆうりき」。結局、何だったのだろう。

 走り去る二人組のバイク、キー・フォルダーのお飾りが”ともだち”の目玉マークになっている。遊んでいるね、小道具や撮影のみなさんは。羨ましいな、趣味と実益を兼ねているとは。私も映画の制作に関わるなら、麗しいヒロインにとことんまで好かれる主人公か、さもなくば小道具をやりたい。昔から図画工作が好きだったから。


 漫画のヴァーチャル・アトラクションでコイズミに「イヤラシイ」「イヤガラセ」と酷評されていた成人映画のポスターだが、あれば私の記憶に間違いが無ければ、かつて絵ではなく写真だったはずだ。そして、そこら中に貼ってあった。しかし、これは映画では絵になっている。時代考証に誤りはないだろうか。

 DVDの第二章の冒頭には、秘密基地で背中を向けてクツクツ笑っている”ともだち”に、お面のサダキヨ少年が近づくシーンがある。雑誌やラジオ、古いのを良く集めたものだが(作ったかな)、基地の床(つまり地面)にサイコロ・キャラメルが転がっているのは高く評価したい。


 一粒で二度おいしいというグリコのコマーシャルは、単なる形容であるが、サイコロ・キャラメルはパッケージを実際に人生ゲームやモノポリー等の双六系ゲームでリユースできるという環境配慮の行き届いた傑作であった。映画では白い箱だけだったが、本物には赤い箱もあって、目出度く紅白の組み合わせになっておった。

 しかし今や、ゲームもみんなデジタルだもんなー。しかも、一人で遊んでいる。先日、ある先輩が7人掛けの長椅子が並んだ都内の電車に乗ったところ、向かい側も含めて計14人が座っており、自分以外の13名がスマホをいじっていたと会議の席上で報告があった。まさに隔世の感がある。


 その点、甲子園はまだまだアナログだしアナクロでもある。球場名の一部が正式の大会名より有名で、且つその代用にされているという稀有のスポーツ大会である。いつの間にやらカチ割り氷はスポーツ飲料に取って代わられているようだが、一番暑い時期に日なたで汗と土にまみれて戦うというカフカもびっくりの理不尽で不合理な設定の中に、相変わらず私を引き付けてやまない何かがある。

 そうそう、野球は小道具の種類の多さでもスポーツ界では珍しい方だろう。グローブだって何種類もあるのだ。それに確か、かつてアメリカ人に言われたものだ。ピッチャ―ズ・プレートとホーム・ベースの距離、また各ベース間の距離こそ、神が設定し賜いしものなりと。神様が関与したかどうかまで知らないが、確かにあれをちょっと変えただけで、野球は全然違う競技になるだろう。意外と繊細なのである。




(この稿おわり)






 八月十五夜 隈なき月影 隙多かる板屋 残りなく漏り来て
 見慣らひたまはぬ住まひのさまも珍しきに 暁近くなりにけるなるべし


                          源氏物語  「夕顔」








































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