私が生まれ育った静岡では、カツマタさんという苗字は決して珍しくない。学校や近所に何人かいた記憶がある。漫画の悪役ぐらいならまだしも、三年ほど前にはうちを所轄する電力会社のトップであるカツマタ君が世間の大顰蹙を買い続け、今般は同姓の男が女の子殺しの容疑者になった。
全国のカツマタさんはこんな事故事件で連日のように自分の名前を連呼されては敵わないだろうな。さぞや迷惑であろう。お気の毒というほかない。
この長編マンガの実質的な最後の場面は、ヴァーチャル・アトラクションの中だ。読者にとって困るのは、現実のようで現実じゃねえことだ。ともあれ読もう。第21集にも出て来た階段を上り詰めた所にあるドアを横に開けて、ケンヂは明るい外側に出た。一見して屋上であることまでは分かった。
彼が先ずここは小学校だろうかと悩んでいるのも仕方がない。つい先ほどまで1970年のケンヂと共にサダキヨの見送りや、ごめんなさい巡りをしてきたばかりだったからだ。でも足元に敷き詰めてあるコンクリートに見覚えがあるらしい。第四中学校だと思い当たった。
またしても彼はここに、”ともだち”の仮想の残骸とでもいうべきものに引率されてきたらしい。盲導犬ならときどき近所でも見かけるが、ノッペラボウに導かれるというのも珍しい。今回もこの時点のこの場所に、来るべくして来たのだ。
これで四つめのステージである。最初は夜の神社から始まった反陽子ばくだんの調査。次にボウリング場。一旦パンチアウトして、サダキヨの引っ越しや平謝りに同伴。そして、ここに飛ばされてきた。全てに共通する点がある。少年時代のケンヂが待っているのだ。ここのルールなのだ。どこかで辻褄が合っているのだ。
今は知らないが、当時の小中学校の屋上は出入り自由だった。もっともガキ連は運動場で遊ぶ方がずっと好きだったから、あまり屋上には行かなかったように思う。この物語でも屋上といえばサダキヨの独擅場であり、ケンヂも小学校ではスプーンの一件でサダキヨに叱られている。
母校の中学の屋上と分かって視線を上げたケンヂは、目を疑う光景を見てしまった。転落防止用の金網のフェンスに男子生徒がよじ登っており、すでに身を乗り出している。ナショナルキッドのお面をかぶったまま、どう見てもそこから落ちるつもりで地面を見下ろし、すでに左足の膝のあたりをフェンスのてっぺんに乗せている。
ケンヂは全く覚えのない場面に動揺している。「と、飛び降り!?」と叫んでから、「よせ」と声を掛けた。かつてフクベエ少年の両脚を”ともだち”が引っ張ったときのカンナたちもそうだったが、仮想現実と分かっていながら本気で救おうとしているのだ。
そのとき天の声か、マーク・ボランのギターが鳴り響いた。もう少し早く来ていればポール・モーリアも楽しめたのに。リフの大音響に最初は「なんだ?」と驚いたケンヂも、T.Rexであることにすぐ気が付いている。
中学生の時の放送室事件の思い出話は、血の大みそかの夜にマルオに話していたから忘れっぽい彼でも忘れられない出来事であった(でも、後に分かるが細部は忘れている様子)。放送室のターン・テーブルで「20世紀少年」のシングル・レコードが回っている。
我に返ったケンヂは、フェンスの上の生徒を改めて見やった。少年も動きを止めて音楽を聴いている様子である。そしてなぜかフェンスを降り始めた。思いとどまったらしい。
まさか前座の「エーゲ海の真珠」でいきなり厭世的になったのではあるまい。ここには決心してきたはずなのだ。でも、どうして気が変わったのか。フェンスについた左手一本で体を支えながら、飛び降り未遂の生徒は何やら考え事をしている風情である。
少年が気を取り直したのはTレックスを聴いたからであって偶然ではない。それは、この日の二人の中学生の会話からも(あのやり取りが本当に過去あったことならばだが)、また、かつて当人がカンナに「僕こそが20世紀少年だ」と威張っていたことからしても明らかだ。
それにラジオ放送で「僕は必要だけど、この世の中は必要じゃない」と宣言した際に、ともだち府の「放送室」でこの歌を前奏曲として流したとき、彼は古いシングル・レコードを持っていた。廊下か屋上でケンヂが持っていたジャケットを見て、さらに「俺がかけたんだもんよ」という証言もあって曲名を知ったのだろう。そしてきっと当時のレコード屋さんで買ったのだ。
多くの人が「ボブ・レノン」に聴き入ったように、少年も「20世紀少年」を聴き続けながら、命を絶つ衝動と闘い続けたのだろうか。こう書くと立派な感じになるが、実際の彼はひたすら他罰的であり、結果的に命の恩人になったと言えなくもないケンヂに対して感謝の念が微塵もなく、結局は権力を得て世界を終わらせようとする。
確かにロックという音楽は、その歌詞や轟音や奇抜なファッションや反社会的な言動などにより、既成の価値観を破壊し風俗を紊乱せんとする。そうでなければ、ロックじゃねえのだ。だが間違っても全員死に絶えろなどというメッセージは出さない。仮に勢いで出したとしても実行などしない。イジメの被害は誠に気の毒だったが、それとこれとは別問題である。
全く実によくねえタイミングで、ケンヂは臨時のDJになったものだ。俺が聴きたいのはこれだというのがその理由だったが、それだけなら自分一人で聴いていれば充分だろうに、実は他に聴かせたい相手がいたのだ。
そして、昼休みは自由な時間である。余りに自由すぎて誰も聴いてくれなかった。みんな弁当やお喋りに夢中だったからだ。中学二年生のケンヂはタイミングを誤った。
放送室はいつもの平凡な放送が終わった後で占拠し、午後の授業が始まった後でロックを流せば、間違いなく大騒動になったはずだ。先生にも十分、怒鳴ってもらえたであろうに。もしももしもって言ってもキリがない。良くやった。
ともあれ人一人、救ったのだ。どうやら男子生徒が飛び降りを断念した様子であるのを見て、大人のケンヂも一安心。心に余裕が戻って来たとき、階下から人声が聞こえて来た。見ればすぐ下の階段の踊り場に自分がいる。そして、彼一人ではなかった。
(この稿おわり)
今年も梅の実が成りました。もうすぐ梅雨だ。
La la, how the life goes on.
(2014年5月1日撮影)
I wake up in the morning and I wonder
why everything is the same as it was.
I can't understand, no, I can't understand
how life goes on the way it does.
Why does my heart go on beating?
Why do these eyes of mine cry?
Don't they know it's the end of the world?
It ended when you said goodbye.
”The End of the World” The Carpenters
朝起きれば 今日もまた同じ一日
分からない 分からない なぜ人生はこうなのか
この心臓はどうして鼓動が続く? この涙はなぜ止まらない?
知らないの? 世界は終わりなのに あなたのサヨナラで終わったのに
”A person who never made a mistake never tried anything new.”
Albert Einstein
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