上巻第4話のユキジ対ケンヂの過去形三連戦は、緒戦がユキジのKO勝ち、第二戦もユキジが判定に持ち込み、柔道家らしく優勢勝ちで逃げき切ったが、第三戦は云わばケンヂの不戦勝となった。場所はライブハウスの「B.C.G.」というワクチン的な店。年代は不明だが、ドラムスのチャーリーこと春さんが、かつて80年代後半にバンドブームというのがあったと述懐しているから、バブル景気のころか。
そうであれば、ケンヂもユキジも二十代の後半で、二十代のユキジの絵はこれが最初で最後か。すでに成田で働いているのであれば今夜は非番か仕事帰りか。彼女はコートを羽織っているし、帰り際、バンドのメンバーもファンも厚着しているので季節は冬だろう。ユキジはバラの花束を抱えて、騒いだり踊ったりのファンに隠れて、後ろのほうで静かにケンヂの演奏と歌唱を聴いている。
ケンヂのギターは先ほどの階段場面のクラシックから、ギブソンの黒いエレキに切り替わっており、ステージの上で飛び跳ねての熱演を展開中。もっとも多分、この後で彼らはテレビ業界に進出しようとして放送事故を起こし、しかもチャーリーを他のバンドに引き抜かれて空中分解した。その直前の全盛期のライブを見ながら、ユキジはやや場違いな感じではあるが嬉しそうだ。演奏が終わって、ファンがバンドのメンバーが出てくるのを待っている。
ユキジは柔道技を使ってでも強引に楽屋に押しかけるべきであった。それ以外にロック・バンドに花束を手渡す好機などなかろう。それなのに、彼女は店の前で生真面目にリハーサルをしている。ケンヂに声を掛ける練習なのだが、そもそもセリフが決まっていない。「しびれちゃった」「素敵だった」「すごーい、かっこよかった」。すべて自分に似合わないことを彼女は自覚している。慣れないから仕方がないが、ロッカーに声を掛ける作法などない。周囲と同様、怒鳴りながら厚かましく近寄ればよいのに。
古い話になりますが、元同僚にディープ・パープルの大ファンがいて、武道館の公演のとき追っかけになろうと決意したそうだ。ライブが終わった後、さすがに武道館の正面から出ては来ないだろうと判断し、裏口の前で待つこと一時間余り、ようやく予想が的中してメンバーが出てきた。しかし敵もさるもの。
最初にスタッフや地味なメンバーがファンの気を引き付けておいて、リッチー・ブラックモアやイアン・ギランのような大物は最後に出てきて、さっさと車で去った。サインどころか握手を求める余裕もなかった由。パープルのライブ・アルバム「Made in Japan」はスタジオ録音より出来が良いとの好評を博した。俺ら日本のロック・ファンは特に何の貢献もしていないのに、これを多とした。
同じ作戦なのか偶然なのか、店から最初に出てきたのはリズム・セクションのビリーとチャーリーで、ケンヂは最後に嬌声を浴びながら登場。ユキジは「ケン...」と言いながら近寄ろうとしたが、ケバい(古いか...)姉ちゃんが先にしがみついたのを見て、ひるんでしまった。バンドの三人はそれぞれ左腕で女を一人ずつ抱きかかえて夜の街に消えようとしている。
残されたユキジは花束とハンドバッグを抱えたまま、寂し気にケンヂの後ろ姿を見送るばかり。うーむ。ここは一丁、ケンヂの前に回り込み、昔のプロレスラーみたくハリセン替わりに花束で相手の頭をひっぱたいてやればよかったのだ。だが、もう小学生でもなく、人目もあるのでユキジは遠慮してしまった。ロックというのは自己主張の音楽であり、ファンとて同様であるのに。
失恋の歌詞だろうと声を振り絞って歌うのがロックというものだ。1997年の第169回「ともだちコンサート」において(169は、アイ・ロック・ユーのことだろう)、ケンヂはロックに定義はないが、これはロックじゃねえと怒った。彼の耳には出来の悪い讃美歌みたいに聴こえたのではないか。ともかく、これで二人の昔話の三部作は終わった。場面は物語の現代に戻る。ここでユキジは、今一度、ケンヂの後ろ姿を見送ることになった。
(この稿おわり)
夕焼雲 (2013年10月2日撮影)
ご近所の黄色いバラ (2013年11月6日撮影)
この街の角に春が来ても
明日からは 一人歩く私の前に
後ろ姿のあなたが見えるだけ
「さよならだけは言わないで」 五輪真弓
後ろ姿のあの人に
幸せになれなんて祈れない
いつか さすらいに耐えかねて
私を訪ねてきてよ
「ほうせんか」 中島みゆき
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