おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

島人 (20世紀少年 第789回)

 今回は大脱線。漫画と一切、関係ないです。早めに書き残しておかないと忘れてしまうから記録します。かなり政治的で微妙な話題なので、そういうのがお嫌いな方はご注意ください。まずは身近な話から。私の自宅の近所には韓国人や中国人が大勢住んでいなさる。
 
 都の統計か何かで見た覚えがあるが、23区の中でも我が区はそれぞれがトップクラスの人口割合であるらしい。特に韓国人のみなさんは明治のころに大勢、済州島から移民してきた工場労働者等のご子孫らしいと近所で生まれ育った方から聞いたことがある。


 おかげで私たちは美味しい韓国料理や中華料理をごく近くの店で安く食べることができる。道を歩いていると漢語や朝鮮語が飛び交っている。私はこれらの言語を解さないが、音調で区別がつくようになってきた。まあ、ジャズとブルースの違いが分かるようなものです。

 私の知る限り当地には民族紛争も領土問題もなく、みなさん平和に暮らしており、嫌な思い一つしたことがない。そこに先日初めて、そしてこれで最後にしてほしいものだが、例の嫌韓デモとやらが近くに来た。そのヘイト・スピーチというらしい口汚さは、まさに筆舌に尽くしがたく、ここには書かない。PCが穢れる。幸い警察か誰かに行く手を阻まれたのか、途中で引き返して隣の区の方向に去った。

 
 さて。隠岐の島紀行も今回で最後だ。滞在2日目は、前回書いたとおり都万に行った。地図で見るとホテルから都万はずいぶんと遠くて、交通標識によると道のりで14キロもある。普通に歩いて3時間ぐらいかかるか。猛暑の真夏ともあって朝早く出かけて、もっと暑くなる昼前に戻ってくる計画を立てた。いつもながら計画は美しい。

 往路は幸い3分の1ぐらい歩いたところで路線バスが通りかかり、それに乗せてもらった。クーラーが心地良く、車窓から見える山々や田園の風景は緑豊かで旅情満点。こうして無事、都万の町中に到着して下車。暑さのせいか人がほとんど歩いていない。港の周辺など歩いてみたが、やはり静まり返っている。田舎者だから、やはり都心より落ち着く。


 バス停で時刻表を見たところ、次のバスまで3時間以上あり、周囲には食堂も喫茶店もコンビニもない。酒屋しかない。仕方なく歩いて戻ることにした。よりによって快晴。いつもの癖で帽子を持ち歩いていない。1時間近く歩いたところで、このままでは命が危ないかもしれんと思った。自動販売機すらない。私は海水を飲めない。

 天の助けは小型トラックでやってきた。「どこまで行くんだ」と初老の運転手が声をかけてくれる。行く先を告げると「それは無茶だ」と言われ、乗せていただくことになった。作業衣のような制服を着てみえたが、詳しく書くと個人が特定されてしまうかもしれないので止める。


 この島で誰かから訊いてみたかった話題がある。おっさん二人、しばらく車に乗っているだけだから絶好のチャンスではないか。さっそく質問してみた。「竹島は見えるんですか?」と。相手は「まさか。157キロある。」と笑った。天気が好いと本土の伯耆大山は見えるが、この島は無理だそうだ。

 先の大戦のころまで、島の人たちはイカ釣りに加えて、竹島に棲息していたアシカをとっつかまえてサーカスに売っていたらしい。そのころはまだ「南朝鮮」のひとたちの操船技術は低く、竹島まで漁に来ることはできなかったそうで、隠岐の漁民だけが漁業を営んでいたという。


 領土問題は世界中にある。しばしば日本政府は「歴史的にも地理的にも」という表現を用いるが、実際、欧米においては歴史がモノを言うと聞いたことがある。それはそうだよね。連中は地球の裏に至るまで植民地支配してきた土地を還さないのだから地理論で争ったら負けだ。おそらくハーグの国際司法裁判所の論理も同様のはずだ。

 ということで、地理的には微妙な位置にあるとしか私には思えない竹島の所属は歴史で主張するのが何よりである。近代史を知る人々が生きているうちに、こういう口伝を集められたし。

 歴史家は、やれ文献学だ考古学だと物にこだわるから彼らにだけ任せていては不足であり、民俗学者とか社会学者とか水産業者とかサーカスに詳しい人とか集めて大調査団を組むべし。少なくとも戦前の数十年間にわたり、竹島隠岐の島人の経済圏であったことは間違いないと思う。


 私を救助してくれた地元のおじさんによると、去年だったか隠岐の島に漂着した北朝鮮の木造船は漁業用の機材など一切載せておらず、島の漁師の誰がどう見ても漁船には見えなかったが、政府と報道の発表によれば「漁船」になっていたらしい。なぜだろうねえと二人で首をひねる。

 拉致された人はいるのですかと訊いたところ、はっきりそうと分かっている人はいないらしい。ただ、海が凪いでいるのに何故か漁民の姿が消えた船だけが戻って来るというのは、過去何度かあったそうだ。似たような件で拉致ではなく事故だったという報道が先日あったので、下手な推測はしない方がいだろう。


 こういう外交軍事上、重要な位置にある島に、なぜか米軍基地はなく自衛隊も駐留していない。隊員募集のための自衛官が二人ほど事務職をしてみえるだけらしい。かつて自衛隊のお偉いさんがお越しになったとき、島の人たちは何故ここに基地を置かないのか訊いたらしい。返事がふるっている。「マッカーサーがそう決めた」のだそうだ。

 もっといろんな話を聞きたかったのだが、早くも車はホテルに着いた。平日だったから向こうはお仕事中だ。私は深々とお辞儀をして、これ以上なく丁寧に謝辞を述べて宿に生還した。先述のとおり、この無理がたたって翌朝から夏風邪で寝込んだ。実働1日半の旅、思い出深い夏休みになった。




(この稿おわり)





フェリー乗り場にて (2013年7月8日)






海上保安庁はある。実績十分の海の警察消防隊。






この海と空の向こうに... (2013年7月9日、都万にて撮影)







 でも だれより だれよりも知っている
 かなしいときも うれしいときも
 なんども見上げていたこの空を

             BEGIN 「島人ぬ宝」


















































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