おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

お面 (20世紀少年 第729回)

 第21集の第11話は「仮面の告白」というタイトルで、言わずと知れた三島由紀夫の代表作から借用されている。この小説は遠い昔に読んだ記憶があるが、どんな筋だったか全く覚えていない。三島は何冊か読んだが、私はついに彼の良さが分からず、もうお金と時間を彼の文学に使うことはないと思う。私事ながら気になるのは、自分の文学の好みだけでこうなったと言い切れない記憶があることだ。

 高校生のときに級友の一人が、三島のように格好よく死にたいといったとき、私は嫌悪感を覚えて大反論した覚えがある。三島の思想など知らないし今も興味がないが、なぜそんな激しい反応をしたのか自分でもよく分からない。はっきりしていることといえば、三島が自衛隊の建物から乗り出して(今その近くで働いています)、何やら叫んでいる彼の姿をテレビで観たのを今も鮮明に覚えているということだ。


 筋を覚えていない以上、なぜこの小説が「仮面の告白」という題なのかすら考えようもないのだが、全体的な印象として私にとっての三島由紀夫というのは、彼の人生そのものが意識的な作り物のように思えてしまう。最期が最期だから、そうなんだろうかな。好き嫌いが大きく別れる作家だが、嫌う人は私と似たようなことを言っていることが多い。若いころ私もファンだった岸田秀さんなど恐ろしく手厳しい。

 この漫画ではもっぱら「お面」という言葉が使われているが、怪人二十面相のシリーズで江戸川乱歩は「仮面」という言葉をよく使っていたような覚えがある。まあ、同じ意味でしょう。英語ではマスク。顔の一部または全部を覆うもの。日本におけるお面の歴史は古い。私は能面がその始まりだと思っていたのだが、近所にある上野の東京国立博物館にたくさん展示されている伎楽面はなお古く、白洲正子の「かくれ里」によれば七世紀に大陸から伝わったものという。


 ナショナル・キッドの実写ドラマおよびコミックスでは、ナショナル・キッドは顔全体をお面で覆っているのではなくて、忍者赤影と同様、目の周りを隠しているだけで口も鼻も出している。しかしこの漫画も映画化されたときも、ナショナル・キッドのお面は他の子供向けのお面と同様、顔全体が隠れるもので、それはともかく、なぜか額の一点を除き真っ白である。これは無表情に見えて気味が悪く、サダキヨがいじめられる一因になっていた。

 あのセルロイド製のお面は祭りの屋台やジジババのような駄菓子屋でよく売られていたのだが、私はあまり買った覚えがない。そんなに好きではなかったので、なけなしの小遣いを投入する気になれなかった。なぜ嫌ったかというと、顔面が窮屈だったからである。視野が狭くなるし、息も発声も苦しい。よくまあサダキヨやカツマタ君は、夏の昼間でもお面をかぶっていられたものだ。よほどのモチベーションがないとああはできまい。


 ”ともだち”が愛用する目玉の覆面に至っては、完全に頭部を包み込んでいるので、あれでどうやって呼吸をしたり喋ったり、見たり聞いたりできるのか不思議で仕方がない。実際それが容易でないことは、あれだけ素顔を隠したがる覆面レスラーでさえ、感覚器だけは外に向けて開放しているではないか。フクベエにはバラエティがあったようだが、ともだち歴の”ともだち”は、徹底的に顔を隠したい事情があるらしい。

 その彼らしき中学生のエピソードが第11話「仮面の告白」の冒頭に出てくる。最初の場所は第四中学校の廊下。1973年の夏服の季節。廊下を渡る中学生男子の後頭部が描かている。「1-3」とは1年3組の看板か。その下の入り口から出てきたヨシツネが「やめとけよお」と制止するのも聞かず、ケンヂが「いいや、俺はやる!!」と宣言している。本人の後述によれば「何かが変わる」と思っていたのだった。実際、変な方向に替わったようだが、その件は後日。


 ヨシツネの説得力は弱くて、「また先生に怒られるぞ」という、いたずらっ子には全く意味のない警告である。「また」がついているから常習犯だ。案の上ケンヂは「かまやしねえよ」と切り捨てている。さらに「これが必要なんだよ。今の世の中、これが。」と叫びながら、ケンヂは手にしたドーナツ盤のレコードを見せている。必要性の根拠は明らかにされていない。

 角度の関係でヨシツネにはシングル・レコードの裏側しか見えず、逆に歩いてきた後頭部の少年にはジャケットの表側が見えている。「20センチュリー・ボーイ」の字。ギターを抱えて歌っているマーク・ボランの姿。鼻息荒く立ち去るケンヂと入れ替わりに、「どうしたの」と言いながらユキジも出てきた。小学生の頃より少し髪が伸びている。蝶結びのリボンはキリコと同じものか。


 ヨシツネはユキジに、ケンヂがまたバカなことをと訴える。「21世紀少年」のヴァーチャル・アトラクションによれば、今の世の中というよりも、もっと身近な何かを変えたくてケンヂはこの暴挙に出たようにも思えるが、少なくとも当のユキジは知ったこっちゃなくて、「ほっときなさいよ、バカなんだから」とトートロジーながらヨシツネを諦めさせるには十分の力がある言葉で、廊下の騒ぎを収束させている。トラブルは放送室に移動したのだ。

 この騒動の間、後頭部の少年は歩みを止めており、一部始終を眺めていた様子である。気になる誰かがいたのか。同じ廊下を歩いていたのだから、同学年の確率が高いが、どこのだれかは知らない。はっきりと描かれてはいないが展開からして、このあと屋上への階段を上っていく少年と同一人物であろう。ナショナル・キッドのお面を持っているが、サダキヨはもう学校が違うしヨシツネらが驚いていないから、これがサダキヨではないのは確かだ。


 キーワードは「今の世の中」。ケンヂはそれをロックで変えようとしている。もう一人の中学生は、それほど単純でも明るくもなかった。階段を昇りながら少年は、今の世の中は必要なのか、僕は必要なのかと深刻な悩みにとらわれて自問自答している。必要も何もないだろうとか、二者択一の問題ではないという常識論は、ここまで追い詰められた心には通用しない。お面越しに見れば、昼休みの屋上は晴れていた。しかし続きは描かれていない。

 そのかわり、「こんな世の中」という誰のものか分からない独白がはさまって、別の舞台に移る。朝日が差すベッドに腰かけた男は、パジャマ姿で起き抜けのようだ。その後頭部の形、髪型、髪の質、耳の外見など、屋上に行った中学生とそっくりだ。その男は”ともだち”の覆面をかぶった。さすがに睡眠中は外しているらしい。「こんな世の中」という他責的なセリフは、この中学生のものというより、この男のものではないかと思う。



(この稿おわり)




咲くもよし、散るもよし。
(2013年5月19日撮影)
































.