おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

犠牲 (20世紀少年 第650回)

 前回の続きです。昨日、引用した「日本から学ぶべき十の事柄」のうち、私は7番目の項目、「THE SACRIFICE」すなわち「犠牲」に対してちょっとした違和感を持っている。念のため、東電原発の被災現場で働き続けている人たちの艱難辛苦を、否定したり疑ったりしているのではない。それを犠牲と呼ぶことに異論がある。

 ここで「50人」と書かれているのは、国際社会で広まった「Fukushima 50」のことだろう。実際は60名余だったと聞いたこともあるが、ここでは正確な人数は問題にしない。なぜ、こんな呼び方が外国では好まれたのか。初めて聞いたときから何とも言えない妙な感覚があったのだが、ある講演でこれがテーマの一つとなり貴重なお話を伺った。


 2年前の夏ごろだから、あの地震津波が発生してから数か月後のことで、講師は宗教学者山折哲雄氏である。最近、皇太子関連の寄稿が雑誌に出て波紋を呼んでいるが、そちらは読んでいないのでここでは話題にしない。以下は配布資料がなく私の記憶に頼るのみなので、実際の発言内容と食い違いがある可能性がある。文責は私にあります。

 山折先生によれば、アメリカが言い出したらしい「Fukushima 50」は、称賛しているというよりもむしろ、死んでも原発事故を食い止めろという要求に等しいと考えてよいだろうとのことだった。再び念のため、現場作業員に直接、死ねと言っているのではなくて、日本はそれくらいの犠牲を払ってでも、放射線を世界にばらまくなというメッセージだというのが私の理解である。


 私のような無宗教の者からみれば、大工の子イエス政教一致の社会で宗教改革をしようとし、政治犯として処刑されたとしか思えない。福音書をどう読んでも、彼が全人類だか全信者だか知らないが、その罪を背負って自ら率先して犠牲になったとは読めない。だが、キリスト教はそう信じているようだ。

 だから彼らは犠牲が崇高なものだと思っており、それはそれで信仰の自由だが、原発の作業員は世界の平和のため犠牲者になる意識で動いていたわけではないはずで、目の前でやらないといけない緊急の仕事があったから働いていたのだ。それを犠牲呼ばわりして勝手に顕彰するなど余計なことだと思う。


 山折さんの見解によれば、さすがの我が国の報道機関も、ほとんど「Fukushima 50」を取り上げなかった。アメリカもすぐ引っ込めた。大手メディアが原発と仲良しだからというより、これはおそらく私と同じように違和感があったか、読者や視聴者の反応が良くなかったからだろう。昔の日本には人柱というような風習があったそうだが、今の日本人には受け入れられない考え方なのだ。そして実は少し後ろめたい。福島や沖縄に。

 旧約聖書聖典とするユダヤ、キリスト、イスラムの三宗教は全て、神の命により息子のイサクを犠牲に捧げる決意をして聖者となったアブラハムから出ている。だからだろう、彼らは自ら進んで犠牲となった人々のドラマが大好きなのだ。テルモピュライのスパルタ軍、アラモの砦、映画「ハルマゲドン」、うちの国では「塩狩峠」。


 最後は漫画の感想文らしく終わろう。もう何度も引用したように、ケンヂは仲間だけでなく関係ない人も、犠牲になるのを嫌いに嫌った。血の大みそかも命を張ったとはいえ、彼は最後まで脱出するつもりでいたのだ。その精神はオッチョにもユキジにもヨシツネにもマルオにも引き継がれ、彼ら自身や周囲の人たちの命を危うい所で救ったことがあった。

 第20集の巻名は「人類の勝負」。いよいよ切羽詰ってきたキリコとカンナは、自らが犠牲になる覚悟を決めて勝負に出る。そのときも遠藤家の女たちは、オッチョやユキジ、ケロヨンやマルオを巻き込まないように措置をしたうえで、単身、命を賭けるのだから血は争えない。さて、物語に戻ろう。市原さんが荷物を抱えて道場に入ってくる場面からだ。



(この稿おわり)




何より好きな梅の花 (2013年3月11日撮影)
 














































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