おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ギターあってこその無敵 (20世紀少年 第627回)

 第19集の後半は、ある意味で長髪の殺し屋が主人公ともいえる。スペードの市たちが、ありったけの武器を集めろと慌てているころ、一人抜け出したケンヂは関東軍の城に向かい、サーチライトを避けながら潜入に成功した。そこへ「よくここまで来たね」というお声がかかった。

 ここは関東軍城の天守閣か? 長髪の優男は上半身裸で、立派な椅子にふんぞり返っている。ケンヂはお前、わざとここに入れたなと挨拶した。相手は「あんた、ケンヂだろ?」と応えた。そして次の第8話「見ぃーつけた」から二人の長い因縁話が展開されるのである。


 「見ぃーつけた」というのは、かくれんぼや缶ケリで鬼が使う用語であるが、いまや田舎は知らず、ここ東京でかくれんぼや缶ケリを子供がやっている姿など全く見ない。後に出てくるようにケンヂやコンチの小学生時代はかくれんぼで遊んでいたようだが、私らは断然、缶ケリであった。近所の家から通りがかりの車まで、ありとあらゆる手段を用いて缶を蹴るために智謀の限りを尽くす。近隣の路地や庭の出入り口や壁の高さまで知悉した者共が闘う。

 さて、第8話は「FUSO」と書かれた大型車が走ってくる絵から始まるが、これはトラックではなくサイレンと鐘と鳴らしているから消防車だ。後ろ姿のケンヂが架けている公衆電話は、おそらく緑色のものでテレフォン・カードが使えるタイプ。近くの上野公園で怪しげなテレカを路上販売していた大勢のペルシャ人の若者はどこに消えてしまったのだろう。衰退産業の末路は厳しい。


 ケンヂは電話口で謝っている。消防車の大音響で会話が成り立たないらしい。最近、放火事件が多いらしいと言ったところ、相手にお前がやったんだろうと嫌疑をかけられている。ここ大江戸ではかつて火事と喧嘩は江戸の華などと言われたらしいが、放火事件の下手人は場合によっては殺人犯よりも重罪であったと聞いたことがある。下手をすると町中、燃えてしまうのだから被害甚大である。無差別テロに近い。

 彼が平身低頭している本来の用件は、バイトに穴を開けてしまったことについてのお詫びであった。ライブのあとで、うっかりギターを盗まれてしまったのだという。ロック・ギタリストとしては致命的に恥ずかしい被害であろう。この前後にユキジが目撃したところによれば、女にうつつを抜かしていたため隙を突かれたのかもしれない。


 取り戻すのに手間がかかったのでバイトに行けなかったと弁明するケンヂの顔にバンソウコウが2枚と傷か痣のようなものが見えるので、かけた手間とは殴り合いであろう。取り返したということは一応、勝ったらしい。だが、それはバイトに無断欠勤された雇い主にとって、どうでもよいことであった。

 今夜は必ず行きますというケンヂに対して、店長は「もう来なくていい」と電話口で拒否した。即日解雇である。バイト探さなくちゃと呟きながら歩くケンヂの前に、買い物袋のようなものを四つも手に下げた老婆が横断歩道をヨロヨロと歩いてくる。


 このシーンについては、すでに触れました。ケンヂは友民党の連中や私のように恩着せがましい態度を一切取らず、ただ単に彼女が渡りきるまで横断歩道の真ん中に立ったまま、罵声とクラクションを浴びながら車列の発進を食い止めた。そんなケンヂの姿を高校生ぐらいの制服姿の男が興味深々とながめている。若き日の長髪の人殺しだ。

 アルバイトよりもギターが大事なケンヂであった。別のバイトを探さなければならないということは、ギターだけでは食っていけないということだから、厳しい言い方をすればまだセミプロだが、非暴力主義の彼が殴り合いまでしてギターを守ったのは天晴である。それはバブル景気のど真ん中、1989年のことであった。まだフリーターという言葉が、職場に束縛されない働き方として、もてはやされるような意味合いで使われていたころである。



(この稿おわり)



新宿西口、駅のそば。血の大みそかの爆心地あたり。
(2013年2月9日撮影)










































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