おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

天地創造はいつからどこまで (20世紀少年 第613回)

 昨日の続き。すなわち「神は一週間でこの世界をつくられた。だから僕は一週間でこの世界を終わりにします。」という”ともだち”の発言批判である。キーワード検索などでいきなりこのページに跳んでみえたかたがいるかもしれないので、前回の注意書きを再掲します。

 旧約聖書聖典をする宗教、すなわちユダヤ経、キリスト教イスラム教の信者の皆さんはお読みにならないほうが良いと思う。私は日本国憲法に言われるまでもなく、誰がどんな宗教を信仰しようと個人の自由だと考えているし、その邪魔をするつもりは一切ないが、ある宗教の好き嫌いや宗教書の読書感想を語るのもまた自由である。


 英語のジェネシスは聖書では「創世記」であるが、一般的な名詞としての意味は「始まり」であると昨日も触れた。”ともだち”は「世界」をつくられたと言っているが、日本語の聖書の題は「世を創った」であっても、本文の内容や表現は違う。創世記の第1章第1節は、「はじめに彼は天と地とを創造された。」とある。「世界」と「天と地」は同じなのか?

 わが広辞苑によると「世界」とは、本来は仏教用語で「衆生が住む時間・空間」であり、「衆生」とは生きとし生けるものであるから、動物も植物も全部含まれる。だが現在の意味は、「地球上の人間社会の全て。万国。」というものだ。世界記録といえば人間が出した記録であって、動物は加えない。世界征服に成功しても、蟻や草は言うことを聞くまい。


 神が第6日に作った人間とは、どう読んでもアダムとイブの御両名だけであり、しかもヘビ以下の知能しかないのだから、エデンの園をもって世界と呼ぶのは苦しい。ちなみに、二人が神の命にそむいて食べたのは「園の中央にある木の実」であって、リンゴではない。そもそもリンゴは青森や長野が名産地であることからも分かるように気温の低い地の産物であり、すっ裸でウロウロできるようなエデンには不向きだろう。

 もっとも、かつて日本で桜が花の代名詞だったように(万葉集のころは梅だったという説もある)、リンゴは欧州において果物の代表格であり、花の代表はバラであったと聞いたことがある。今もパイン・アップルとかクリスマス・ローズとか言う名称に、その形跡がある。

 
 創世記に戻る。第1節の天地創造に続き、第2節はこんな具合だ。「地は形なく、むなしく、やみが淵の表にあり、神の霊が水のおもてをおおっていた」。これを普通に読めば、神が天地創造に着手したとき、すでに水はあったのだ。驚いたね。全部、作ったのではなかったのだ。実はもっと前に水は作ってあったのだという記述などない。逆に、天と地の創造は「はじめに」と明記してある。

 日本語訳では分かりづらい部分もあるので、英語のウェブ・サイト「THE HOLY BIBLE Revised Standard Version Catholic Edition」でジェネシスを読む。これを見ても、水(waters)は天と地より先にあったとしか読めない。
http://jmom.honlam.org/rsvce/


 なかなか面白いのは、天と地が英語では「the heavens and the earth」になっていることだ。私はこれまで「ヘヴン」といえば天国のことだとばかり思いこんでいたのだが、英和辞典でも英英辞でも、小文字の「heaven」は空を意味するそうだ。第8節にようやく大文字で始まる「Heaven」が出てくる(これも天と訳されている)。

 ジョン・レノンが「イマジン」の冒頭で歌っている「ヘヴン」は、その直後に「ヘル」が出てくるので、天国と地獄のことに違いない。私にとって天国のイメージは、「帰って来たヨッパライ」に出てくるように神様と、生前は善人だった者が住むところであるが、これは極楽の印象と混同しているようだ。旧約聖書の「天」は「大空」と同じである。


 要するに6日間で神様が作ってくれたのは、自然であり、地球であり、宇宙である。世界ではない。それに、”ともだち”は「宇宙との一体化」がどうのこうのと言っているのだが、前にも書いたように私たちは物理化学的には宇宙の一部そのものであり、宇宙と離れているわけでもないし、宇宙と縁を切ることもできない。

 ややこしいのは、われわれが「私」とか「自分」とかいうものを意識するものだから、自分以外のすべては環境であると言い放ち、えてして暮らしが上手くいかないのは環境のせいにして、それでも自分の出来の悪さは如何ともしがたく、悩み苦しみ病んだりする。そういう隙をねらってカルトは登場するのだろう。


 仁谷神父は神を信じているのか法王を信じているのか、自身よくわからず、でもそんなことはどうでもよいことだとカンナに語っている。正直な人だ。自分を信じるものだけが救われると言い切っているのは、私の知る限り、この旧約の神と”ともだち”だけである。私がこの神を信仰することは未来永劫あるまい。

 子供のころ聖書物語で、ノアの方舟の話を読んでから嫌いになった。ノアの家族以外は、本当にみんな極悪非道だったのだろうか? 動物まで一つがいだけ救い、あとは溺死させて平気なのか。アブハラムに子殺しを命じても、ヨブをいじめ抜いても問題ないらしい。津波も神のおぼしめしか? ジョン・レノンはあんな歌を歌ったから殺されたのか。


 悪口言いたい放題で終わると後味が悪いな。イスラム教は、原理主義のテロばかりが扇動的に報道されているが、本来は旧約聖書の神とアラーの神は彼らにとって同じであり、多くのムスリムは穏やかで敬虔な人々である。

 かつてパキスタンの高原を傭上車で走っていたとき、現地雇用の運転手が微笑みながら「失礼。お祈りの時間が来た」と言って停車した。それが呼吸と同じくらい彼に必要なものであることが伝わってくる雰囲気であった。


 やむなく私は車から出て所在無げにしていたのだが、運転手がガソリン・スタンドの横で静かに祈りを捧げている間、その近くにいた人たちは初対面で異教徒の私に手招きをして、熱くて甘いミルク入りの紅茶(チャイ)を飲ませてくれた。

 言葉が全く通じないのに、彼らがこの闖入者を面白がり、何とかして笑顔と応接で好意を伝えたがっているのを肌で感じることができる。信仰のない国では、なかなかこうはいかないだろうと思う。



(この稿おわり)



新宿の教会 (2013年1月31日撮影)


 Oh God said to Abraham, "Kill me a son"
 Abe says, "Man, you must be puttin' me on"
 God say, "No." Abe say, "What ?"
 God say, "You can do what you want Abe, but
 The next time you see me comin' you better run"
 Well Abe says, "Where do you want this killin' done ?"
 God says. "Out on Highway 61".

        ボブ・ディラン 「追憶のハイウェイ61」


















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