おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

ともだちよ、これが私の一週間の仕事です (20世紀少年 第612回)

 基本的に小欄はページ順に感想を書き続けているのだが、たまには先走りたくなることもある。書きたいと思ったことを、その発想とやる気が残っているうちに書いておかないと、忘れてしまうことがある。今回触れるのはストーリーではなくて、台詞ひとつを取り上げるだけだから、ときにはいいでしょう。

 旧約聖書聖典とする宗教、すなわちユダヤ経、キリスト教イスラム教の信者の皆さんはお読みにならないほうが良いと思う。私は日本国憲法に言われるまでもなく、誰がどんな宗教を信仰しようと個人の自由だと考えているし、その邪魔をするつもりは一切ないが、ある宗教の好き嫌いや宗教書の読書感想を語るのもまた自由である。


 お題は第21集の最後、ともだち府の「放送室」から”ともだち”が全世界に発信した宣言の核心部分である。すなわち彼は「神は一週間でこの世界をつくられた。だから僕は一週間でこの世界を終わりにします。」という一節について、いちゃもんをつけたいことが、たくさんあるのだ。

 例えば、この二つの文をつなぐ「だから」という接続詞。広辞苑の解説によると、「だから」とは「前に述べた事柄が、後に述べる事柄の原因・理由になることを表す語」とある。本件の「だから」の前に述べた事柄は、原因や理由を語っているとは思えず、単に一週間のモノマネであろう。まあ、この程度のことはどうでもよい。


 ”ともだち”が語っている「神」とは、たぶん旧約聖書の神だろう。一体、明治期のクリスチャンはどういうつもりで、英語でいうと「God」を「神」と邦訳したのだろうか。この国で神とは八百万の神のことであり、神様仏様稲尾様の神のことである。異国の一神教が崇拝する対象に使うべきではない。戦国時代のキリシタンは「デウス様」と呼んでいた。まだしもこちらのほうが遠慮というものを知っている。

 興味深いのは”ともだち”が、「つくられた」と敬語を使っていることだ。文字どおり神をも畏れぬ残虐行為の数々を平気でやってきて、これからもやろうとする者が、まさか信者ではないと思うのだが。神様(ややこしいな、神永氏のことです)は、バチカンの力を借りて”ともだち”は強大になったと言っていた。少しは敬意を表したか。


 ここでは旧約聖書の神が話題となっているということを前提に、では、”ともだち”の言っていることが正確なのかどうか考える。第一点は「一週間」の正否である。6日で天地創造をして7日目は休んだのではなかったか。だから、安息日という習慣ができ、日本ほか世界中に押し付けられているはずだ。

 徳川時代の江戸の町民は、旧暦の朔日と十五日、つまり新月と満月の日に休んでいたというのを本で読んだことがある。朔日とは「ついたち」で、萩原朔太郎は11月1日生まれだから、その字を借りている。これは月休二日制である。きつい労働という感じもするが、別の本によれば江戸の町人は昼には仕事を切り上げて、午後は酒を飲みながら将棋を指したりして過ごしていたというから物凄く羨ましい話だ。


 その昔、ジェネシスというロック・バンドがあった。初代のボーカリストピーター・ガブリエルはすでに話題にしたと思う。アメリカのラジオで何度かこの人の名を聞いたあったが、先方の発音では「ゲイブリオウ」という風に聞える。彼は好きだったが、次のボーカリストフィル・コリンズにはあまり興味がない。ただし、「Against All Odds」は気に入っています。

 ゲイブリオウの名は大天使ガブリエルに由来する。先年、日本にも来て評判になったレオナルド・ダ・ヴィンチ画「受胎告知」は、その少し前にフィレンツェウフィツィ美術館で観ている。受胎のニュースをもたらしたメッセンジャーが「大天使」のガブリエルである。天使にも序列があるのだ。マリア様は余りの知らせに、さすがに喜色満面とはいかず困った顔をしている。


 ジェネシスとは、普通名詞では起源とか始原とかいう意味で、「20世紀少年」的にいうと「〇〇の始まり」という意味。そして、固有名詞としては旧約聖書の第一集、「創世記」のことだ。これが「神は一週間でこの世界をつくられた」の出典である。

 創世記によると、神はお仕事の初日に光と闇、第二日に天、第三日に地と植物、第四日に太陽と月、第五日に鳥と獣と水中の生物を創った。そして、第六日には獣について、家畜と地を這うものと、その他大勢の三種に区分した。

 この辺で止めておいた方が良かったかもしれないのだが、勢いがついたか疲れが出たか、つい人間も創った。アーノルド・シュワルツネッガー元知事が主演した映画「シックス・デイ」の作品名はこれに由来する。


 分かりづらいのは手許の日本語訳聖書(日本聖書協会)によると、第二章に「神は第七日に作業を終えられた」とある。これを普通に読めば7日目も働いて、そしてようやく終わったという表現である。ただし、「七日目に休まれた」とも書いてあるので、半ドンで仕事は終わり、午後半休でも取ったのか。

 さすがにこのままでは不鮮明だと思ったのだろうか、旧約聖書の書き手は「出エジプト記」や「申命記」において補足説明をしている。安息日には働いてはいけないというルールも含む「モーセ十戒」で有名な箇所である。その何か所かの記述により、神は6日目で仕事を終えて、7日目は完全休養であったことが分かる。だから、”ともだち”は間違っている。まだ他にも疑念があるので次回に続きます。



(この稿おわり)




聖書をどう読んでも「私の肉と血」の代りの品は「パンと杯」であって、パンとワインではない。英語では「cup」。
(2013年1月5日撮影)



   日曜日に市場へ出かけ、糸と麻を買ってきた    − ロシア民謡 「一週間」








































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