おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

マス大山 【後半】 (20世紀少年 第607回)

 空手を全く知らないのに2回分の文量になったのは、もう一つ、大山倍達の話題があるからです。一昨年、ベストセラーになったドキュメンタリー、増田俊也著「木村正彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」という本がある。渾身の力作とは、こういうものを指す。

 取材の対象はタイトルにあるように、柔道界の巨人、木村政彦である。他方、著者の関心は彼の生涯全般という伝記的なものだけではなく、これまたタイトルにあるように、ただ一つの闘いを巡る記録と解釈が中心となっている。1954年の蔵前国技館で行われたプロレス日本一決定戦、力道山と木村の闘い。


 同書によれば、当日、東京では主だった駅前や公園などに幾つもの街頭テレビが設置され、それぞれに万人単位の群衆が集まったという。会場の国技館は収容人数を超える入場希望者があふれ、ダフ屋のチケットは今の通貨価値でいうと30万円くらいで売れたらしい。入りきれないファンを整理するため消防庁に加えて機動隊まで出た。娯楽のない時代である。

 試合は力道山が勝った。その映像は小さいころテレビで何回、観たことか。ただし最後の方はカットしてあったと思う。お茶の間に向かないと判断されたのだろう。この勝利が力道山の人気をさらに高め、雷神山がその跡を継いでカツオを喜ばせるに至る。だが、この試合は本当に真剣勝負だったのか。これまた本のタイトルが匂わすとおり事情は複雑であったらしい。


 木村政彦や柔道の話題は、いずれまた本書とともに出すことにする。木村政彦は彼と同時代の柔道家全てが、戦前戦後を通じて最強の男であったと口をそろえて語り、全国大会等の彼の実績がその評価を裏打ちしている。同じ柔の道を歩く者として、ユキジの大先輩にあたる。彼女も本書を読めば「作者の熱い志が伝わって参ります」と語るであろう。

 今回この本を取り上げたのは、大山倍達も何回か出てくるので、それに触れたかったのだ。同じ格闘技でも種目が違う世界で生きていながら(著者によると、伝統的な柔術はそもそも総合格闘技であったらしい。知らなかった。)、若き日の大山は木村に私淑し、この試合の当日も開始前の控室に付き添い、試合開始後はリング脇で観戦している。試合後の様子はこんな具合だ。

 大山は五、六人に羽交い絞めにされながら絶叫した。「おい力動! 俺がこの場で挑戦する!」
 力道山はちらりと大山を見たが、すぐに視線を外してロープに寄りかかった。
 「力動っ!」
 大山の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


 また、控室に戻った木村を見た恩師の牛島辰熊は、怪我の状態が尋常ではないのを見て取った。牛島は柔道史に残る達人であり大村の恩人でもあったのだが、こういう展開になったらしい。
 
 「大山、救急車を呼べ」
 牛島が言った。
 大山が怒った。
 「牛島! 何が救急車だ! ここで救急車を読んだら一生の恥になってしまうじゃないか」

 
 ケンヂはマス大山の話題に触れた後、「そのくらい強けりゃよかったんだよ...」と言ったまま黙り込んだ。そこで将平君は「遠藤カンナ、知っていますね?」と肝心の話題を出した。カンナと知り合いであり、あの歌も聴かせてもらったと伝えた。カンナの名を聞いて、いきなり立ち上がったケンヂは、「行くぞ。東京だ」と言った。

 俺には釣りは向いていないが、東京にどうしても決着つけたい相手がいるんだと彼は言う。ガキのころ釣りそこなったジャリ穴ってところにいる伝説のライ魚こそ、その相手であるという。決着つける相手は、それだけではないだろう。だが、ケンヂは「まだいるかなあ」と暢気に話し、将平君はまたしても「はあ?」を繰り返している。



(この稿おわり)




この冬、東京は寒くて、数日後も雪が残った。 (2013年1月19日、神田の靖国通りにて撮影)





 














































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