おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

大晦日 (20世紀少年 第580 回)

 大晦日である。のんびり雑談で過ごそう。「大晦日」と書いて、ずっと昔は「おおつごもり」とも読んだらしい。樋口一葉の短編小説にも「大つごもり」という題のものがある。当時の彼女は今の台東区から文京区に引っ越した頃で、どちらの家の跡も拙宅から歩いて行ける距離にある。

 「大つごもり」の一節に、「初音町といへば床しけれど、世をうぐひすの貧乏町」という表現が出てくる。今では初音町という正式な地名は近辺にないが、これも近所の台東区にある幼稚園に初音の名が残っている。初音というのはウェブで妙な使われ方をしているようだが、本来は季節が来て鳥や虫の声が初めて聞こえることをいう。

 初音は古い言葉であり、源氏物語の五十四帖の通称でもある。娘を案ずる明石の君のうた、「年月をまつに引かれてふる人にけふうぐひすの初音きかせよ」(谷崎潤一郎訳)とある。紫式部も一葉も鶯の初音が好きだったのだろう。「まつ」は、しばしば「松」と「待つ」にかけられる。松の小枝に結ばれて、源氏の君に届けられた歌だ。


 前にも書いた覚えがあるが、拙宅のすぐそばには正岡子規も住んでいた。この地で他界している。当時は不治の病であり感染症でもある肺結核を患ったが、後輩の高浜虚子河東碧梧桐、親友の夏目漱石、大先輩の森鴎外、雇い主の陸羯南(子規の生業は最初から最後まで新聞記者であって文学者ではない)などが繰り返し見舞いに訪れている。

 明治二十八年といえば彼の亡くなる7年前だから、まだ子規も少しは元気なころだったろう。この年の大晦日に根岸の正岡家を訪問した人の名が作品の中に残されている。「漱石が来て虚子が来て大三十日」。彼らが歩んだ道は、いま私の散歩道になっている。


 後年、血の大みそかと呼ばれるようになった2000年12月31日に自分がどこで何をしていたか、全く覚えていない。たいていの年末年始は実家のある静岡に帰省することになっているので、たぶん昼ごろまでグータラスーダラと寝ていて、夜は紅白歌合戦を観ながら飲んで酔って寝たのだろう。

 ちなみに、その1年前の1999年12月31日は、事情があってはっきり覚えている。働いていたのだ。このときはカンボジアにいて、職場は年末の三日間と正月の三が日が休日であったが、私は1月3日しか休めなかった。その理由は、迫りくる恐怖「コンピュータ2000年問題」の対応策と、年明けにご来訪予定の小渕首相の受け入れ準備で大忙しだったのだ。


 去年の大みそかも実家にいた。大震災の年。毎年1回、被災地に行こうと決心し、去年は南三陸町に行った。今年は陸前高田などを考えていたのだが、旅行に必要な三大条件、お金、時間、体力が三つともそろった試しがなく、ついに現地入りを果たせず年末を迎えてしまった。来年2回行きますので許してください。

 下の写真は毎日新聞に掲載されたもので、ネットのニュースにもなった。在りし日の一本松である。私は「奇跡」という言葉を”ともだち”一派のように乱発するマスコミやネットの無神経さが嫌いで、「樋口一葉の奇跡の14か月」とか、「陸前高田の奇跡の一本松」などと言われても感動などしない。だが、この松が特別なものであることには異論がない。

 勝手にコピーすると著作権法に触れるのかもしれんが、ウェブの新聞記事はご承知のように古いものが、どんどん消されてしまう。ここに残しておいたとて、刑事罰はくらうかもしれないが天罰は下るまい。被災地には、誰かを何かを待つ人々が今もいる。被災地でなくてもいる。今年の最後は松飾りで締めよう。



(この項おわり)























































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