蝶野巡査長はチョージャと芹沢を残し、一人帰途についた。どこかで自転車に乗り、見張り塔に向かいながら、彼の表情は沈んでいる。心理描写によると、世界中がウィルスで死滅したらしいが、今の自分はこんな暮らしをしていると、やや自嘲気味だ。元気がない。
続いて彼は東京はどうなっているだろうと思いを巡らせている。東京には家族や親せき、同僚や歌舞伎町の知り合いも残っているだろうに、彼は「遠藤カンナ...君はどうしているだろう」と思いを寄せている。カンナもいろいろ大変なのだが知る由もない。カンナがチョーチョの心配をしているかどうかも分からないな。
見張り塔の見張り番に、「交代だ」と告げて蝶野巡査長は梯子段を上っていく。再び彼の心境が活字で語られている。「”ともだち”は宇宙人が攻めてくるという。こんな日々が続くぐらいなら、宇宙人が攻めて来て、本当にこの世界を消し去ってくれればいい」とおそろしく悲観的になっている。「でも、何も来やしない」。
彼は昔、遠藤カンナのウォークマンで聴いたケンヂおじちゃんの歌詞を覚えているのだろうか。彼がこんな暮らしになってしまうような事態を防ごうとした大みそかの夜、ケンヂは「こんな毎日が君のまわりで、ずっとずっと続きますように」と願いつつ歌った。続かなかった。逆に蝶野巡査長がこんな日々が続くぐらいならと嘆くようなことになってしまった。
ところで、宇宙人が地球に来るとしても、一概に暴力的、攻撃的とは言い切れまい。そりゃ確かにウルトラセブンの宇宙人たちも、宇宙猿人ゴリも、私の名はゴアも、宇宙戦争の火星人も、ろくな連中ではなかった。宇宙人と呼べるかどうか微妙だが、ソラリスの海も恐ろしい。
しかし反証もある。クラークの「幼年期の終わり」、サミュエル・R・ディレイニーの「ノヴァ」、ジェイムズ・P・ホーガンの「星を継ぐもの」、スティーブン・スピルバーグ監督作の「E.T.」、手塚治虫の「W3 ワンダー・スリー」。宇宙には、きっと良い人たちもいるのだ。この点で私はサダキヨと同意見。
物語は第17集第9話の「最果ての歌」に入る。何人かがラジオで音波を拾おうとしているところから始まる。残っていればもはや骨董品の部類にはいるであろうカセット・レコーダーとラジオが組み合わさったもので、私の学生時代はこういうラジカセで音楽を聴いていた。
テープの再生や録音をするためには、思いっきり力をこめてスイッチを押しこまなければならない。FMから録音するとき、イントロに間に合わないことがある。そうやって録音したカセットが100本ぐらい残っている。テープが経年劣化していなければ、1980年前後のヒット曲が聴けるはずだ。ホール&オーツとか、パット・ベネターとか。
ラジオはしばらく雑音しか伝えなかったが、ようやく誰かが「聴こえた」と叫んでいる。人々がこのラジオで何を聴きたがっていたのかは、かなり先に出てくるので、先にページ順にストーリーを追います。舞台は再び見張り塔で、またも星巡査が蝶野巡査長の交代にきた。二人ともそれぞれ手に何か荷物を持っている。塔の上で二人の食事と会話が始まった。
(この項おわり)
赤坂の街飾り (2012年12月14日撮影)
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