芹沢と蝶野巡査長は農作業の歌が流れる道を歩き、「チョージャ様」の御屋敷に向かった。第17集の148ページ。チョージャ屋敷は農地の向こう側、木立に囲まれた丘の中腹に立っている。わが国の郊外において、かくのごとき妙な西洋風のお城みたいな建物がある場合は、往々にして妙な目的に使われていることが多い。
案の定、屋敷の門前の柱には「深夜休憩OK!!」という看板が出ているので、かつてはもっと風情のある使われ方をしていたに相違ない。チョージャが座っている部屋にある不細工な置物の数々も、当時の名残りをとどめている。
わが家の近くには、都内でも屈指の規模の「休憩もOK」のホテル街がある。朝の6時ごろ散歩で通りかかると老婆や若者が路上でホウキ掃除や水打ちをしていて、周囲は銀座や丸の内に負けず劣らず清潔である。私が自宅から最寄の駅の一つに行くには、この街を抜けていくのが近道なので、ここに出入りする人たちの様子を眺め、また、日々変わるご利用料金をチェックするなどして歩く。
近所には伝統のある都立高校もあって、朝夕はこの色とりどりのホテルに囲まれた道を、清楚な女子高生たちが談笑しながら歩きぬけていく情緒豊かな光景を時折ながめることができる。
ついでに申し上げると、うちからは少し歩けば、かの吉原にも行くことができる。こちらでは、店の前に身なりのよい男性が立っていることが多く、通りかかると「いかがですか」と丁寧に声をかけられることが多いのだが、何が如何なのか詳しくは知らない。街区の入口には見返り柳、裏には古い神社がある。
さて、チョージャの顔には見覚えがない。初登場だろうか。白アリの女王みたいに太って座り込んでいる。「脱税は、”ともだち”に対する反逆だもの。で、処分はしたの?」と訊いている。芹沢がはいと言うと、「あ、そう」で会見は終わった。芹沢は蝶野巡査長を先に帰させて、チョージャは「ごほうびは何がいい?」と尋ねている。この建物内で何をするつもりか。
脱税は今でも重罪だが、お裁きもなしで銃殺とは、どういう世の中か。最近は民主主義もすっかり不調だが、チャーチルが喝破したとおり、他よりは「まだまし」だから使っているのである。独裁者が苛烈な徴税を行うとどういうことになるか。以下は、前にも引用した司馬遼太郎「街道をゆく」17巻に拠る。残酷な話が苦手な方はご遠慮ください。
天草四郎の名前がいわば独り歩きしたためか、天草の乱と呼ばれることが多いが、実際にはほぼ同時に島原と天草で別々に乱が起き、後に連携したため「島原天草の乱」と呼ぶほうが適切だろう。キリシタンの弾圧があったことは事実として、司馬さんは乱の本質が宗教一揆ではなく、過酷な徴税と刑罰にあったと分析し主張する。
江戸初期、島原の為政者は農民に重税を課し、納めきれない者は蓑を着せて木に縛り付け、蓑に火をつけて焼き殺した。税金取りや刑吏はこれを蓑踊りと呼んで楽しんだらしい。他には人を籠に入れて、流れの速い川に漬けておくという拷問がさかんに行われた。
ある大百姓の家では、過酷な年貢を納めることができなくなり、長男の若い嫁が籠に入れられて川に放り込まれた。男は農作業の働き手なので女を選んだのだ。彼女は臨月を迎えていた。六日目、川の中で子を産み、母子とも死んだ。司馬遼太郎はただ一行に怒りをこめてこう書いている。「ここまで追いつめられれば、魚でも陸を駆けるのではないか」。
この本も前に触れたような覚えがあるが、この渡辺京二「逝きし世の面影」に収録されている幕末維新のころの日本を訪れた西洋人たちの見聞録によると、当時のわれわれのご先祖は農作業のみならず、土木現場などでも一緒に歌いながら重労働をこなしていたらしい。
辛いとき苦しいとき、音楽に救われた経験を持つ人は多いと思う。かつての私のその一人だったので、切実に分かる。文字を持たない民族はいても、音楽を持たない民族はいないのではなかろうか。いま蝶野巡査長が勤務する北方検問所の近くでは、収奪に苦しむ人々が音楽を求めている。そして、唄いなれた歌を切り替えるほどの力のある曲が彼らに届いたのだ。宇宙人がくるはずの北の国から。
(この項おわり)
サントリーホール前のツリー (2012年12月14日撮影)
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