おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

最後の貧乏話 【その4】 (20世紀少年 第548回)

 最終回の今日は、とっておきのテーマ、便所である。お食事中の方、また、そもそもそういう不潔な話題がお嫌いな方は、絶対に読まないでくださいね。

 今の日本の青少年は、発展途上国の田舎に旅行でもしたことがない限り、汲み取り式の便所というものを見たことがないのではなかろうか。ものすごく幸せだと思ってほしい。もはや、水洗トイレという言葉自体がほとんど死語なのではないか。この国では区別する必要性がなくなっているのだから。

 
 震災のときは水が出なくなったり、排水管が詰まったりで、結果的にこれと同じような状況になった避難場所もあったらしいと聞く。あれが一番きつかったと語っていた避難民の声も報道を通じてお聞きした記憶がある。

 汲み取り式便所の臭気と、見た目の汚さについては、以前もここでご紹介したような覚えもあるが、濱口國雄の「便所掃除」という詩を読んでいただければ分かる。ウェブ上にもあります。壮絶というほかない。ただし、読むのであれば、絶対に途中でくじけずに必ず最後の最後まで読んでください。


 こういう状況が当時の中流階級の自宅でも一般的であった。1960年代の子供が日ごろ出歩く範囲で水洗式があるのは、学校とか病院とか役所とかデパートとか、ある程度、公共性の高いところに限られていたと思う。近所も親戚も友達の家も、ごく一部の裕福な家庭を除き、江戸時代とそんなに変わらなかっただろう。

 1973年に第一次オイルショックが起きたとき、何を勘違いしたのかトイレット・ペーパーの買い占め騒動というのが全国的に起きた。ということは70年代にはトイレット・ペーパーが民家にも普及していたということだろうが、60年代のわが実家に、そういう贅沢品は無かった。


 さすがに紙ぐらいはあったが、今はなきチリ紙と称するものである。よそは知らず、当時の静岡には二種類あって、やや高価で柔らかい白チリと、その反対の黒チリに分かれる。うちの実家は当然のごとく黒。白でさえ今のキッチン・タオルやペーパー・ナプキンよりも固くてゴワゴワしていたのだから、黒はそれらと紙やすりの中間ぐらいと言えばよいだろうか。

 当時の回収は、バキューム・カーの担当であった。はるか遠くにいても、ああ、来ているなあとわかる臭いを発散する。これがまた、故郷のシステムでは、現場で現金払いであった。母はこの作業を嫌い、私に押し付けた。お釣りも嫌だというので、まず私が代金を尋ねるところから資金決済が始まる。一体、バキューム・カーが開発されるまでは、どうやって解決していたのだろう。

 
 語れど尽きないこの話題だが、書いているだけで胸が悪くなるので程々にやめておくとして、最後は衛生の問題である。汲み取り式は暖かい季節になると、無数の蛆が湧く。蠢いているのが見える。更に気温が上がると孵化し、それらの一部は巣立つことなく実家に居つく。

 便所に舞っている金色の巨大なハエは、食事時になると人体や料理の上に遠慮なく舞い降りてくる。さすがに料理店ではハエ取り紙が吊り下げてあるが、貧しい家ではそういう防衛体制を整えることもできない。やむなく、箸やスプーンで追い払いながら食事をする。宮本武蔵を真似てみても、容易に捕まる相手ではない。


 こんな調子だから、子供のお腹には時々、虫がわく。私が小学校を卒業するころまで、学校では毎年、蟯虫(ぎょうちゅう)の検査をしていて、例年、数名が陽性反応を示し、虫くだしを飲まないといけない。私には過敏としか思えない今の清潔好きな日本人を、当時のわが家に時空を超えてお招きしたいな。

 前々回のお古も、昨日のエアコンなしの暮らしも、我慢するしかないのであれば、案外あっさり我慢できるかもしれない。だが、本件だけは何としてでも再発を防止しなければならないと切実に思う。あんな日が私の周りで、ずっとずっと続かなくて本当に良かった。



(この項おわり)




東京で安産の神様といえば水天宮。私も父親になる前にお参りしました。美しい子供をうみますように。
(2012年11月24日撮影)






































































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