おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

最後の貧乏話 【その3】 (20世紀少年 第547回)

 2回目の今日はエアコンについて語りたい。後日、たまには真面目にエネルギー問題を取り上げてみたいので、その前触れというか、材料にするためでもある。エアコンのない世の中に戻ったら、私は日本では長生きできない。今でさえ気温が下がると必ず風邪を引くし、夏バテは年々ひどくなる一方である。

 カリフォルニアで暮らした5年間は、まだ若かったこともあって多少の気温の上がり下がりに耐え、エアコンは使わなかった。記憶では部屋にクーラーは付いていたが、ヒーターは無かったと思う。そういう常夏ならぬ常春のような土地でなければ、エアコンなしではもう夏冬を越せないだろう。


 カリフォルニア時代は私の二十代後半にあたり、それ以前にエアコン付きの暮らしをしたことはないから、初めて自宅でエアコンのお世話になったのは三十を過ぎてからということになる。それまではどうだったか。これは土地によって事情が大きく異なるだろうが、私の場合、高校卒業までは静岡、大学が京都、就職後は千葉・三重・東京。

 実家の静岡では、冬が温暖な地であるだけに、寒い季節はこたつと石油ストーブで何とかなった。うちにはなかったが、親戚の家や病院の待合室などでは、まだごく普通に火鉢や掘り炬燵があった時代。木造のボロ家だったから、隙間風が冷たかったが、子供だったから平気だったのだろう(我慢していたのを覚えていないだけかもしれないが)。


 問題は夏の暑さで、あれには本当に参った。1970年まで実家には網戸がなく、締切の部屋で親子4人が寝なくてはならない。しかも、親戚が一人、扇風機を回転させずに寝込んで死にかけたという話が伝わって以降(実は親が単に電気代を節約したかっただけなのかもしれないが)、就寝時の扇風機も禁止。蚊帳もなくて、耳元でブーンという蚊の羽音が実にいまいましく響く。

 京都の下宿も大変だった。夏暑く、冬寒い土地である。特に冬の京都の底冷えは有名で、下宿の畳から冷気が足元から伝わって段々と身体を冷やしていくのが実感できる。共用の水道も、朝は凍っていて使えない。

 
 それに、学校にもエアコン等がなかった。北国ではストーブがあったようだが、静岡の小中高も、京都の大学も、私の時代は冷暖房など全くなかった。冬は人いきれで何とかなるが、夏は厳しかったな。大学では避暑のため、講義をサボっていた。

 就職して関東に移り、社宅の独身寮でずっと暮らしていたが、そのころの社宅は冷暖房も電話もない。私の部屋は家具も小机一つしかなくて、「枯山水」というあだ名がついたが、住民にとってはそんな風流なものではないのだ。ついでに言うと、社宅の風呂は11時で温水が止まるので、残業の日は水で体を洗うことになる。こういう修行をすると心身が鍛えられると人は言うが、例外のない規則はなく、私は例外のほうに属した。


 今の東京、夏の暑さは尋常ではない。特に困るのは昼の最高気温より、夜になっても気温があまり下がらないことだ。ヒート・アイランド現象と呼ぶらしいが、何がアイランドだと思う。自宅でも職場でも、ふんだんにエアコンを使えるような連中が名付けたに違いないと確信している。

 昨年の夏は、大震災後の節電や計画停電で、オフィスが暑かった会社も多かっただろう。法令により事務系の事業場は、温度設定を28度以下にしないとならない決まりである。だが、昔はともかく、今は冷房機器の設定が28度であっても、みんなの目の前にあるコンピュータ類が熱風を送り届けてくれるので、体感温度とは乖離があるはずだ。


 それに、そのうちエネルギー問題が悪化して、29度とか30度に改定されてしまうかもしれない。まあ、多少は慣れるかもしれない。カンボジアで暮らしていたときは、自宅を一日中、30度にしていたが慣れた。クーラーのない現地の家で暮らしていた青年海外協力隊のみんなには頭が下がる。


 ロシア人男性の平均寿命は60歳を切っていてウオッカの飲みすぎだといわれるが、これは単に飲酒文化の結果ではなく、極寒の気候で働かなかればならないのが主因であろうと推測している。高齢者は体温の調整機能が衰えるので寒さ暑さには弱い。そして、私はその高齢者に時々刻々と近付いている。

 エアコンが滅びる日がきたら、私も滅びるであろう。仕方がない。周囲の自然環境と折り合いがつかないのであれば、生物は身が持たない。そのころには、ヒート・アイランドも、さわやかアイランドに変わっていると良いのだけれど。



(この項おわり)




まだ由美かおるのが見つからない。 (2012年11月19日撮影)




























































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