おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

最後の貧乏話 【その2】 (20世紀少年 第546回)

 さて、もう二度と御免こうむるという貧乏体験の第1号は、衣類の「お古」についてです。お古の風習は別に昭和の昔に限らず、今でも同性の兄弟姉妹がいる家では珍しくないだろうし、世界中で行われていることだろうとは思う。

 それに、基本的にお古は上の子が成長したあとで、もう着られなくなったものが下の子に使用権が移るだけなので、今や私のような年代が日常的に経験することはないはずだ。しかし、非日常的なことはいつも起こり得るもので、例えば阪神・淡路や東日本の大震災のときは、現地の被災者がさすがに怒りを隠しきれなかったほどの古いお古が集まった。


 1960年代は、まもなく一億総中流という言葉が流行ったほどに、中産階級にも戦後高度経済成長のおこぼれがトリクル・ダウンしてきた。ただし、中産階級といっても、現在、その没落が危惧されているアメリカの中産階級とは水準がかけ離れている。

 私はサンフランシスコで中産階級の人々と一緒に働き、また、そういう人たちが暮している町に住んだ。借家だったが8畳ぐらいある部屋が三つか四つあり(よく覚えていないのは、夫婦二人で使いきれなかったから)、それとは別に屋根裏部屋も広く、芝生の庭は家の前と後ろにあって、駐車場は3台の車を置けた。本物の暖炉があって、現地の冬は日本人にとって寒くもないのに使っていた。


 その家の大家さんも中産階級で、たしか他にも貸家を持っていた。隣家の夫婦も似たような家に住んでいたが、週末はRVの上にヨットだかボートだかを載せて、近くの湖に遊びに行く。若い同僚の一人は、うちは移民してきて間もないので貧しいと言っていたが、彼は自家用のセスナでUCLAに通っていたそうだ。

 これと比べると、日本の自称中流も、あくまで相対的に上と下がいるからという程度のもので、実質的には「中産」を所有しているとは言い難いレベルだから、逆にちょっとした違いが大層、気になる。級友との間で、うちは中の上だとか中の中とかいう議論が流行ったことがある。母に訊いたら「残念だけど中の下だね」と悔しそうに言っていたのを覚えているが、今にして思うとそれさえ過大申告かもしれない。


 例えば、私は幼稚園から小学校卒業まで、長袖の服を着た覚えがない。中学校の詰襟の制服が人生初の長袖だったかもしれない。無かったのかだら着ようがない。そしてシャツも半袖セーターも半ズボンも全て、お古であったと思う。

 長男なのになぜそういうことになったかというと、幸か不幸か少し年上の従兄が三人もいて、しかも自転車で行ける距離に住んでいたからだ。でも、上着のお古は全く抵抗がなかった。兄貴のいる奴はボロボロの服を着ていて、殆どみんな兄貴のお古だとぼやきながら、でもそんなにショックも受けずに遊んでいた。


 問題は私の場合、下着まで従兄のお古だったことだ。シャツもパンツも、彼らの名前がマジックペンで書いてあった。名前が書いてあるのは、つまり先方では兄弟の区別をする必要があったからで、三代目のお古まであったはずだ。さすがに、今この歳になって、こういう事態は避けたい。

 新品は滅多に買ってもらえず、たまに買うと親が威張るのなんの。そして、それらはすぐに着用することが許されず、特別な外出の機会などに初めて「おろす」ことができる。念のため申し上げるが、ただの化繊の下着とか半袖シャツでこの騒ぎだったのだから、幸せといえば幸せなのかな??

 
 最後は、そろそろ季節も近いので、クリスマスの話題で締めくくろう。幼稚園児のころか、その少し前か、12月25日にオモチャか何かをいただいたとき、祖父が大真面目な顔で、「窓から出ていくサンタの後ろ姿だけ、ちらっと見えた。でも顔は見えなかったし、挨拶もしそこねた」と言ったので、私はそれを真に受けて、3年生ぐらいまでサンタの実存を信じ、感謝の念を失うことはなかった。偉い子だったな。

 その信仰の時代に、私はクリスマスのプレゼントとして、新品の靴下をもらったことがある。これはこれで、嬉しかった。だが、私の理解によると、古今東西、サンタクロースは良い子のみんなにイヴの夜、備えておいた靴下の中に贈り物を入れて颯爽と去っていく偉人であるはず。贈り物そのものが靴下というのは、来年のためを思っての親切だったのだろうか。


(この項おわり)




昭和も遠くなりにけりだ。 (2012年11月19日撮影)













































































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