おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

お化け煙突 (20世紀少年 第520回)

 今日は脱線の日。第16集の164ページ目に、「暑苦しいサイレンだな」と通行人が文句を言っているシーンがあるが、その前の絵に、高い煙突が三本並んでいる絵がある。ここに限らず、”ともだち”が再建した町には煙突が多い。昭和時代の東京の真ん中に工場がたくさんあったとも思えないが、これは何か。

 銭湯の煙突は、第16集巻頭の虹の絵に出てきた松の湯のように、通常は一本だけである。何本も高い煙突があるとしたら、我ながらとても強引だが火力発電所かもしれない。決めつけるつもりはないけれど、自分にとって話題としては面白い。「千住 お化け煙突」で検索すると、サイトや写真が、けっこう多く出てくる。昔の東京の名物みたいなものだったのだ。


 一般向けに公開されて一か月あまり経った東京スカイツリーは、先輩格の東京タワーと違って、完全にシンメトリカルな建築物ではない。ねじれている。いろんな場所からご覧になった方はお気づきのことと思うが、見る角度によって、タワー本体が少し違う形状に見えるように工夫されている。

 なんでまた、そんな面倒くさそうなデザインにしたかというと、設計を担当した方のお話しでは、千住にあった火力発電所の「お化け煙突」にヒントを得たそうだ。お化けと呼ばれた理由には諸説あるそうだが、高い建物などなかった時代は、その高さと煙が目立ちに目立って、単なる工業施設なのにシンボル的な存在であったらしい。


 千住は日光道中および奥州街道の第一の宿として、江戸時代、大いに栄えた。当時は水路も重要な交通機関であったし、ちょうど両街道と隅田川が交差する地点だったため、千住は両岸において発展している。北のほうが中心で、今の足立区北千住。南側は荒川区南千住。松尾芭蕉の「おくの細道」は、自宅から千住まで舟で移動して歩き始めている。わが家から歩いて行けます。

 お化け煙突は北千住駅の西側、蛇行する隅田川のほとりにあった。その前に浅草にあった発電施設が関東大震災の後に引っ越してきた。最後に取り壊されたのは東京オリンピックのあった1964年。経済発展と人口増のため電力需要が増え、大型の発電機が必要となり、タービンを冷却するための海水を求めて臨海に移転して、お化け煙突は消えた。


 千住の煙突は4本あって、真上から見ると潰れた菱形のような配列になっている。このため、見る角度によって4本に見えたり、3本や2本に見えたり、ときには1本の太い煙突に見えたそうだ。ここから都内に電力を供給していたわけだが、先述のとおり、高度経済成長時代には充分なお役に立てなくなってきたのだ。

 発電所に限らず、エネルギー源が石炭から石油に移行していく過程において(石油は燃料のみならず材料にもなる)、製造業は輸入に頼る石油の取扱いに便利な港湾地帯へと移って行った。いまも首都圏の工業地帯といえば、まず第一に東京湾沿いである。


 そんなわけで、東京で高い煙突といえば、私が連想するのは千住のお化け煙突であり、それは1964年に撤去されている。以前も書いたが、ともだち暦3年の東京のレトロさ加減は、原っぱに秘密基地があった1969年や1970年のころより、5年前、10年前、あるいはもっと前の風景のような感じがする。

 たまに東京オリンピックのころの映像などを見るが、それよりさらに貧しかった時代のような、「幕末太陽傳」の冒頭に出てくる戦後の品川のような、そんな雰囲気がするのだが、何分そのころ東京にいたわけでもないので、これ以上のことは言えない。

 貧乏は恥ずかしいことでもないし、悪でもない。だが、貧乏くさいというのは、みっともないことだと思っている。ともだち歴3年の東京は、為政者に押し付けられた貧乏くささに汚されたような街だと思う。読者はたまたまオッチョを救ったサナエとカツオの明るさや一図さに救われている。



(この稿おわり)




もうすぐ稲刈り (2012年10月21日撮影)



































































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