おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

誰の「記憶」か (20世紀少年 第508回)

 前回の続きです。これらが誰の記憶なのかという問いに対し、答えを三つ考えてみた。(1)世界大統領になった”ともだち”の記憶。この場合、記憶情報は”ともだち”がアウトプット側であり、装置のほうがインプット側である。次の二つは出力と入力が逆で、(2)フクベエの記憶、(3)大勢の人の記憶の集まり。

 最初は(2)のフクベエの記憶を、世界大統領に移植しているのかもしれないとも思った。いわば、”ともだち”の引き継ぎのようなものである。こっそりとすり替わった以上、こっそりと知っておくべきことは、たくさんあると考えてもよい。


 ところが、幾つかの理由により、この(2)の考え方は、おかしいのではないかと考えるようになってきた。まず、ともだちマスクの男が「バハハーイ」と言いながら手を振っているシーンは、われわれが知る限りにおいて、万博開幕日に狙撃された”ともだち”が完全に復活した日のことであり、つまりフクベエの死後である。

 次に、この機械の名称(あるいは機能)であるが、これを操作していた技師は、「読み取りシステム」に異常が発生してしまいましたと言っている。これだけなら、”ともだち”側の電極などのことを言っているかもしれないという可能性も残るが、続いて彼は「これまで入力したものは保存されています」と言っている。これはどうみても、”ともだち”の脳の記憶能力のことではなく、機械側の状況を説明したものだ。


 それに、もしも(2)なり(3)なり、他者の記憶が”ともだち”の脳内に伝達されているのであれば、彼の知らない「記憶」が登場しても驚くに値しない。しかし、彼は「おまえが、こんなふうに死ぬとは思わなかったよ」というイメージに驚愕して「は...!!」と叫んでおり、それがおそらく入力側のシステム異常を招いているのだろう。

 それに続く彼の独白は、「すべては過去の記憶のはずだ。それなら...あれは何だ。最後に出て来た、あのイメージ、あれはなんだ...」である。前回想像したように、ここで出入力されている記憶は、「絶交」関連の選ばれた記憶が中心となっており、”ともだち”が意識して、残すべき記憶を選んでいるようにもみえるのだが、どうやら邪魔が入ったのだ。


 最後まで読んだ読者は、この「最後に出て来た、あのイメージ」が何なのかを知っている。そして、おそらく世界大統領の小学校時代の姿であろうナショナルキッドのお面をかぶった少年は、未来において山根がフクベエを教室で殺すという予知夢を見る能力を持っていたことも知っている。彼は未来の自分が見たものを見たのだ。

 思えば、彼は後に語ったように、ずっと一緒にいたからフクベエのことは良く知っているのであり、すり替わったという事実が漏えいするリスクをおかしてまで、フクベエの記憶を移設しなくても、十分、”ともだち”という怪しげな役割を果たし得ると考えても良かろう。


 ということで、現時点での私の解釈は、”ともだち”の記憶を機械で読み取り、保存しているのがこの場面である。その殆どが「絶交」やテロのシーンばかりというのも興味深い。”ともだち暦”時代の”ともだち”は、私の個人的な印象であるが、それ以前すなわちフクベエがいた時代よりも、はるかに凶暴である。

 ここに並んでいる記憶が、この”ともだち”の内面の中核であったとすれば、別の言い方をすれば、本人が保存すべき記憶だと考えているのだとすれば、二人一役で成り立っていたかもしれない従来の”ともだち”のうち、「絶交」の指令をしていたのは、この人物ではないかとも思える。


 最後に、それでは何のために(あるいは、誰のために)、記憶を外部に保存する必要があるのかという問題が控えている。私には心当たりが二つあります。一つは、フクベエにとってのヴァーチャル・リアリティーと同様、彼も「昭和の町テーマパーク」を作っている。自分の記憶通りに作りたいと思うのは当然であろう。

 もう一つは、まだ何巻か先に、記憶を保存する必要性が有り得るという話題が出てくるので、そのときに詳しく書きたいと思う。要するにクローン用。さて、物語に戻ろう。最後のイメージに悩まされながら、”ともだち”は巨大なタワー型のビルの屋上に立ち、眼下に広がる古ぼけた街並みを見下ろしている。ともだち暦3年。



(この稿おわり)




こんな花が咲く季節になりました(2012年10月16日撮影)


































































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